偽善者と非難される者は悪かもしれないが偽善者と非難する者は悪だ

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 震災を巡って様々な支援が広がるに連れ、こうした活動の一部に対し、偽善と揶揄する声も目立つようになりました。こうした構図は災害時にだけ見られるわけではなく、常日頃から目にするものですが、状況が状況だけに両者ともに目につくのでしょう。
 善意からの行為について、その有効性・実効性を確証することは尤もなことですし、また単なる自己満足でむしろ足をひっぱるような例もあることでしょうし、別段「慈善行為」に関わらず、「何もしないのが一番マシ」な状況というのは世の中に沢山あります。
 しかし、こうした「善意からのダメな行為」を偽善と責めることは間違っています。間違っているというのは、端的に事実として間違いであると同時に、倫理的に間違いだということです。ついでながら、この二つの間違いは同時的で、前者の決定不可能性が後者に掬いあげられることにより、決定的に間違いとなっています。これは価値判断が世界に常に既に読み込まれる(価値判断の「汚染」を取り払った純粋抽象世界など幻想)、という好例です。
 偽善とは、悪しき意図により形上善く見える行いをすることで、これは罪です。至高なるアッラーはその偉大なる書で仰っています。

بَشِّرِ الْمُنَافِقِينَ بِأَنَّ لَهُمْ عَذَابًا أَلِيمًا
偽信者に告げなさい、かれらに痛烈な懲罰があることを (4-138)

 しかし、彼または彼女の意図が本当に悪であるかどうかは、他人に容易に確証できるものではありません。アッラーはいくつかの状況において、偽信者(偽善者)が如何に振舞うかを示されていますから、ここから類推できる限りである程度の推測は勿論できますが、当たり前ですが、他人の意図を100%知ることなどありませんし、本人にとってすら意図はしばしば不分明なものです。わたしたちはしばしば、わたしたち自身の本当の気持ちが分かりません。すべてをご存知なのはアッラーだけです。「アッラーは汝の頸動脈より近い」です。
 ですから、偽善者には罰が下るでしょうが、彼または彼女を偽善者と裁定し、罰を下されるのはアッラーです。本人にすらよく分からないことを、ただの人間たるわたしたちが断じることなど能わないでしょう。偽善の罪は、例えば姦淫の罪などとは性質が異なるでしょう。軽々に偽善により人を誹謗するのは、偽善とされているその行い以上に罪深いです。
 もしある人が、独善的で自己満足的な「慈善行為」を行っているとすれば、その人は偽善者なのではなく(偽善者である可能性もありますが)、単にバカなのです。だから「バカ」と言えばよろしい。その人はバカさ加減に気づいて改めるかもしれないし、バカなままかもしれない。主のみぞ知るところ。
 ただ、世の中には必ず一定数のバカがいます。程度を問わないなら、人間なんて多かれ少なかれバカちんだと思って間違いではありません。バカだバカだと言われれば、成長できたかもしれないバカが拗ねてもっとバカになってしまうかもしれませんし、バカだからと言ってあまりバカバカ言うのは、これもバカです。今一番バカと言っているのはわたしですが。
 「不安と希望、殴られて正気にかえる」でも触れましたが、そもそも善というのは、結構下世話でえげつないものです。善とは財たれるものです。そこに何か純粋で真っ白なものを期待してばかりいるのは、むしろ善から遠い者たちでしょう。偽善を非難する罪を言うなら、黙って汚い善と共に生きれば良いではないですか。
 偽善者とされる者がもし本当に偽善者なのなら、裁き手たるアッラーが一番ご存知で、本人もまた他人よりはいくらかよく知っているでしょう。知っている限りにおいて、彼または彼女はわたしたちよりはよく自らを裁けるし、悔悟し主に赦しを乞うかもしれません。裁く権利=真理حقなき者が、アッラーの権利=真理を犯してはならない。