『キーチVS』と『愛と幻想のファシズム』と「ありのまま」

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4091818684キーチVS 1 (ビッグコミックス)
新井 英樹
小学館 2008-04

 『キーチVS』という漫画が素晴らしく面白いです。パラパラと読み飛ばしにくい、何故か読むのに時間のかかる漫画なのですが、一気に読んでしまいました。まだ六巻までしか出ていないのですが・・。
 多くの人が指摘されているでしょうが、明らかに村上龍の『愛と幻想のファシズム』と相似的です。作者自身がおそらく意識しているでしょう。主人公二人に加え、実行部隊としての「クロマニヨン」ならぬ「波羅蜜多」と、かなりクロスオーバーする部分があります。
 これはパクリとかそんなことを言っているのではなく、両方とも凄い作品で、尚且つ、おそらくはこの同一のテーマ系を描こうとしたら、ある程度似てくるのは仕方がないか、という面があります。またそれ以上に、『愛と幻想のファシズム』を意識したのなら、これからどんな展開を見せてくれるのか、期待で一杯なのです。
 『愛と幻想のファシズム』は、前半と後半で非常に異なる展開を見せます。映像的でアクティヴな前半に対し、後半は政治や経済の動きが淡々と描かれ、物語としてはやや退屈なほどです。しかしこれは、システムに抗う者がやがてシステム化していく、というこの物語の中心課題をそのまま写しているわけです。
 『キーチVS』は『愛と幻想のファシズム』で言えば上巻にあたる部分で、そもそも『キーチVS』の前に『キーチ!!』という「子供編」があります。『愛と幻想のファシズム』後半のような展開は、漫画という媒体では非常に厳しいでしょうし、違う答えを見せて欲しい、という期待もありますが、どこかで相田剣介にあたる甲斐との関係に物語が収斂していくのは間違いないでしょう。
 甲斐は「システム化してしまった反システム」を負っているわけですが、キーチがさんざん暴れてこの流れに戻るとも考えられず、漫画の構成としては、二人の個人的関係の中で終焉させる、というくらいが普通の予想でしょう。『愛と幻想のファシズム』と違って二人の関係は子供時代からですから、『AKIRA』ではないですが、「大きくなりすぎた話に友情と思い出でオチをつける」という漫画の定番手法にもっていくには割と都合が良いです。
 時系列として「その後」の世界が想定できるとしても、物語としては一回切らざるを得なくなるはずです。つまり村上龍における『五分後の世界』です。ちなみに『五分後の世界』は個人的に村上龍で本当に読むべき一冊だと思っています。
 勿論、一番期待しているのは、そんな予想の斜め上を行って欲しい、ということで、主の許しにより、作者が素晴らしい展開を見せてくれるのを楽しみにしています。

 キーチがよく口にする「照れるな」というのが、とてもしっくり来ます。この辺は、「善いことをしても許してやろう」で書かせて頂いたことにつながると思っています。
 それにしてもファッショは素晴らしい。イスラームがなければ、ファシズム以外考えれないし、何とか両立できないものかとすら考えます。ファッショの問題は、所詮ナショナリズムの亡霊から逃げ切れないこと、神の法を排除していることくらいです。

 もう一つ面白いのが、五巻の最後にある町山智浩さんのインタビューです。彼は「ありのままのあなたが素晴らしい」と言い続けたことが大失敗だった、と指摘します。

 ありのままの自分が素晴らしいと言うのは、成長の否定、教育自体の否定です。これが恐ろしいことで、生まれたままの、ありのままがいいなら、貧乏やブサイクに生まれた奴は一生うだつがあがらない。「努力すれば買われる」というチャンスを奪われてしまう。(・・・)
 昔は落ちこぼれの人間が体制や強者と闘う場合、必ず作戦を立てたんですよ。敵の意表を突こうと。
 『アニマルハウス』という映画がありますけど、大学の落ちこぼれ軍団が金持ちのエリートのやつらを倒すために徹底的に作戦を練るわけですよ。それで初めて勝てるんだと。『ROOKIES』って何の作戦も立てない。「ありのままの自分」で特攻するだけ。
 でも、それが素晴らしいんだとなっていくと、もう何なんだって。昔は漫画でも特訓シーンというのがあったりしたんですけどね。

 これは非常に重要な指摘で、「国敗れて山河あり」のようなナイーヴな「日本的」自然信仰とも通底していそうです1。しかし、一方で「ありのまま」と言われれば嬉しい心自体は否定し難く、実のところ、本当に問題なのは、「ありのまま」そのものではありません。
 誰が「ありのまま」を決めているか、ということです。
 戦後民主主義の中では、「ありのまま」を決定する審級はぼかされたままで、それは結局「自分」という形でお茶を濁されます。自分が「ありのまま」だと思ったら、それが「ありのまま」。それは確かにそうなのですが、その「自分」というが「ありのまま」なのですから、言わば堂々巡りで、結局何が言いたいのかよく分かりません。おまけに都合が悪くなると「自己責任」で切り捨てられます。
 「ありのまま」というのは、そんな簡単なものではありません。「ありのまま」になりたいのに、なかなかなれないから大変なのです。自然にしていたら自然にならない。
 なぜなら、「ありのまま」を決めているのは「自分」ではないからです。はっきり言えばアッラーがお決めになっています。そう言われて「またシューキョーかよ」と思うなら、背中に書かれた本当の名前だと考えればいい。「ありのまま」は自分で決めたものではないし、最初から決まっていますから、そこに到達するには、時に努力が要るし、心を殺さなければならないこともある。言ってみれば、「これがお前の『ありのまま』だ。だから『ありのまま』であれ」という、理不尽な命令を生きなければならないのです。
 ですから、町山氏の指摘(もちろんこれは、『キーチ』の流れを念頭に置かれたもの)には首肯するものの、真の問題は「ありのまま」そのものではなく、それを決めている存在を語らず、「形なき諸偶像」により奢りと絶望を背負わせた言説群にある、と言うべきです。
 الله أكبر

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  1. そうした意味でも、アニミズムだの多神教だのと言って悦に入っている少なからぬ日本人たちは唾棄すべき退廃者であり、小ジハードの刃を剥いて然るべきだと考えます []