礼拝は死ぬ練習ではないのか

シェアする

 「名前のない本」という、エジプトのテレビ司会者みたいな人の書いた本をぼちぼち訳しています。所謂宗教の「専門家」ではまったくなく、当人も「自分は専門家ではない」と何重にもことわった上で、一ムスリムとしてイスラームについて色々書いているのですが、これがなかなか面白いです。
 ただ、わたしとしても一応断りを入れると、全面的に賛同している訳では全くないし、特に非ムスリムの日本人に予備知識なく読まれるとちょっと危ないかな、という気もしています。エジプト方言で書かれているくらいなので、読者としてはエジプト人、それもほとんどがムスリムしか想定していません。想定外の使い方をして変な誤解を招くと怖いので、非ムスリムの方が読まれる時は、話三分の一くらいと肝に命じて読んでください。
 
 本題ですが、この本の中で気に入った箇所の一つに、「なぜ礼拝するのか」というものがあります。
 礼拝というのは不思議なものです。シューキョーに縁のない方からすると、例えば利他的行為や道徳観念的な部分については、ある程度理解できても、礼拝とか斎戒とか、やったからといって直接的に他人のためにならないものは、奇妙に見えるのではないかと思います。
 また、ムスリムが多数派の地域などでは、礼拝や斎戒といった信仰行為に非常に熱心であるにも関わらず、社会道徳的な部分で風上にもおけない人が沢山いることは、疑問に思うのも無理のないことでしょう。
 話の大前提として、信仰と道徳というのは一旦分けて考えるべきで、社会功利的な観点に信仰を還元しようというのはそもそも大間違いであって(「役に立つ」宗教)、極論すれば、アッラーさえ満足されるなら人間それ自体は二の次かと思うのですが(実際には結果的にそうならない)、その点を差し引いて一信徒として眺めても、「この敬虔さと外道ぶりが、どうやってこの人の中で共存できているのか」と、逆に興味を惹かれてしまうくらいの人が大勢います。
 著者は「礼拝(やその他の狭義の信仰実践)さえしていれば天国に行ける」という発想を批判していて、「礼拝さえしていればオッケーだと思っているから、平気で人を踏みにじるのだろう」といったことを言っています。また逆に、礼拝だけは熱心なロクデナシを見て「礼拝なんて役に立たない、礼拝しないで善行する方が余程立派だ」と考えてしまう人も挙げています。更に面白いのは、「キチンと礼拝しないなら、しない方がマシだ」と言われて「じゃあしない」となってしまうタイプです。歯磨きしても虫歯になるから歯磨きしません、みたいな発想です(笑)。
 また、礼拝の重要性を重んじる余り、「悪行を重ねながら礼拝して助かろうとはふとどきな」という視点も批判し、「悪人の主は違う神だとでも言うのか。善人でも悪人でも主はお一人ではないか」と言っています。
 ここでのポイントは、礼拝において重要なのは、その「善性」ではなく「平等性」だということです。
 礼拝が単純に「良いこと」だと思うから、「礼拝さえすればオッケー」とか「悪人が厚かましく礼拝するな」「礼拝しているのにロクデナシなのはどういうことだ」という発想が出てくるのです。礼拝が大切なのは、それが「良いこと」だからとか、善性の担保になるからではなく、「誰にでも平等に課せられる」からです。
 著者はこれを、死の平等性と重ねあわせます。死は誰にでも平等に訪れ、誰もが平等に裁きを受ける。礼拝は死と同じく平等に課されたもので、それがどのように評価されるかは、最終的にはアッラーのみがご存知のことです。
 
 これを読んでいて、自分がなんとなくぼんやり感じていたことと重なりました。礼拝というのは、死ぬ練習じゃないのか、と思うことがあるからです。
 なぜ練習になるのか、と問われると、キチンと説明できないのですが、できれば祈るように死にたい、という想いがあります。ゴチャゴチャ考えずに、とにかく礼拝する。その時間は、自分であって自分でないような時間です。このひれ伏す感じ、全部投げ出してしまう感じが、死に対する心構えに近いのかと思っています。
 礼拝が小さな死であり、死ぬ練習だとしたら、平等で不可避の死への備えとして悪くないことでしょうが、練習していたからといって本番で上手く行くとは限らないし、ロクに練習してなくても本番に強い人がいたり、練習はサボるけれど独自メニューで不思議な実力をつけてくるヤツがいてもおかしくありません。その程度には確かで、その程度には不確かなものなのでしょう。
 わたし個人は、凡人ですので、ぶっつけ本番でうまくやる自信は到底ありません。練習して上手く行くかどうかは分かりませんが、他にできることもないので、とりあえず定番の稽古だけは積んでおこうと思っています。