寂しい信仰

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 二言目には「ムスリムをテロリストのように見るのはとんでもない誤解だ」「テロリストは本当のムスリムではない」「イスラームは平和の宗教だ」というようなことを言う人がいます。一応イスラーム教徒の端くれであるわたしに対しても、「イスラームはヘーワ」と聞いてもいないのに訴えるような人たちです。
 欧米メディア等が偏った報道をしているのは事実ですし、所謂「テロリスト」の多くがあまり誉められたムスリムでないのも本当でしょう。
 しかし、「テロリストはムスリムではない」と「彼らのイスラームは偽物」と言う人達が、逆に「自分たちは本当のイスラームを知っている(それは平和の宗教だ)」と思っているのだとしたら、これはテロリストと同じくらい危ういことではないか、と感じます。
 「いやいや、厳密なところは分からないよ、法学者でもシャイフでもないからね」と答えたとしても、同じことです。彼らは「本当のイスラーム」を知ることができる、少なくとも「世界には(自分には無理にせよ)『本当のイスラーム』を知っている人がいる」と考えているのですから。
 「本当のイスラーム」などは、結局のところアッラーにしか分かりません。
 お断りしておきますが、「本当のイスラーム」に近づこうという営為が無駄だというのではないし、無数の法学者・神学者の仕事を否定しようなどという気は毛頭ありません。ただ、最終的な手の届かさ、神との絶対的隔絶、非「ヒューマニズム」ということを見失ってしまったら、テロリストよりもっとイスラームより遠くなってしまう、と言いたいのです。
 「それを言えるなら、お前こそ『本当のイスラーム』でも知っているつもりか」と言われそうですが、その指摘は尤もです。ただし、真の知、確実性に対する絶対的無力ということは、「暴力是か非か」などより、ずっと基本的でイスラームの原理に近いことでしょう。暴力だの戦争などというのは、イスラームに限らず、一定の条件では禁忌が解除されるものです。そこにあるのは、ただの「条件」の問題です(だからこそ軽々に断じることができない)。
 
 「イスラームはヘーワ」と口角泡を飛ばし語る人々には、どこか慌てふためいた否認の匂いがします。本当のところ、平和とか戦争とか、そんなシンプルなお話で信仰が語れないことを分かっているからのようにも見えます。
 クルアーンを紐解けば、多少なりとも荒っぽい表現があるのは明白です(もちろんヘブライ語聖書にも!)。「それは昔の話だから」というのは勿論違って、聖典は絶対な訳ですが、重要なのは、その絶対の聖典は必ずしも首尾一貫したものではなく(首尾一貫した見えを備えているわけではなく)、理性を援用し解釈を引き出すことはできても、最終的なところはアッラーにしか分からないのです。そういう最後の諦念があるからこそ、聖典は聖典のはずです(もちろんヘブライ語聖書も!)。
 ちなみに、この点からも「クルアーンだけを信じる(伝統的信仰共同体を信じない)」という立場はまったく滑稽です。聞かれもしないのに「イスラームはヘーワ」とうろたえる人と同じくらい哀れです。ただしそれが、法学者共同体なら正しい答えを出せる、という意味でないのは、勿論のことですが1
 
 信仰というのは、とても寂しいもので、アッラーの近さというのは、一番孤独なところで表と裏がぬるんと入れ替わるようにして知ることではないか、と思っています。

  1. 法学者共同体、知の共同体の最大のミッションは「時間を稼ぐ」ことな気がします []
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