どうぶつ心

 イスラームは人間と動物をキッパリわけますし、حيوان(動物)と人間に言えばそれは「クソヤロウ」みたいな罵倒語です(日本語だってウマシカですし、大抵の文化圏ではそんなものかもしれませんが)。割と西洋の影響の強い地域でも、愛玩動物を飼うような習慣については是々非々の意見があります。尤も、愛玩動物という社会的位置づけと動物そのものの位置づけは別問題で、これはいわゆる「先進国」の習慣に過ぎないとは思いますが。
 というわけで、動物をあまり身近に感じすぎるのはイスラーム的に是なのか非なのか微妙な気もしますし、いわゆる「先進国」で育ったわたしが「愛玩動物」的思想に汚染されているのは間違いないでしょうが、わたしにとって「どうぶつ心」というのは、信仰とつながっているところがあります。
 もしかすると仏教的な発想なのかもしれませんが、「いかにして動物の領域に近づくか」というのは、そういう言い方をするかどうかは別として、信仰の本質を分かりやすく切り取る一つの方法なのでは、と考えるからです。
 
 一つには、わたしたちの抱えているのが「人間的」問題だからです。「人間的」なことが問題なら、「人間的」じゃないひとたちを参考にするのは、自然な道理でしょう。
 ただ、あのひとたちとわたしたちはやっぱり違うので、同じやり方をすれば良いかというと、そんなに甘くはないはずです。シャリーア、法的領域というのは、そのためにあるのでしょう。要するに自由意志や規範の問題ですが、そういう話は今回は脇に避けておきます。
 もう一つは、わたし個人にアスペルガー的性質が強く(診断を受けたことはない)、「人間的な社会的な心がよくわからない」「決まったパターンに強い執着を示す」傾向があり、これが「どうぶつ心」とちょっと通じるからです。
 これについて、わたしが非常に強い感銘を受けたのは、テンプル・グランディンです。
 テンプル・グランディンは、アスペルガー症候群を抱えながら、動物学者として成功し、家畜施設の設計などに携わっているアメリカ人の女性です。著書では『動物感覚―アニマル・マインドを読み解く』が断然おすすめですが、同時に、彼女についてのリポートを含むオリバー・サックスの『火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者』を読まれると良いでしょう。
 彼女に共感するのは、その文章の巧みさと、著書以前に話題になったサックスの筆致によるものが大きいでしょうし、共感している人のほとんどは別にアスペルガー症候群ではないはずですが、「感情というものがわからず人間の外的状態と彼らの言う心情を結びつける辞書を構築して対応した」等というのは、まるで自分のことを書かれているような気分になりました。
 その彼女が、自閉症と動物の行動パターンの類似性を色々指摘していています。何せ動物ですから、人間の社会で重要な社会的心情とは無縁なのですが、決まったパターンの中での微細な差異には非常に鋭く影響されます。抽象度が低い一方、状況依存的な「思考」では高い弁別能力を備えます。
 
 後者の方の理由がまったく個人的なお話かというと、そうでもなく、信仰というのはとてもとても古い思考に根を持つもので、現代的な発想で理解しようとしては、一知半解に陥ってしまう危険が高いものです。特に、社会学的視点から信仰を「外から」分析しているようなテクストに影響されすぎると(こうした仕事自体は面白いし、その成果は楽しく拝読させて頂いています)、わかりやすく整理された「文化」としての信仰しか見えず、信仰実践そのものにとってはほとんど役に立たないし、いつまで経っても内側からの信仰理解には到達できません。
 「古いもの」だからといって、動物まで遡るのはやり過ぎだろう、とツッコまれるでしょうが、信仰が根ざしているような領域というのは、とても「動物的」な部分があるんじゃないか、と感じます。いえ、動物だったら人間のような信仰は要らないのですが、動物なら脳みそに最初から刷り込まれているようなものを、仕方なく別口で改めてセットしているのが信仰なのではないか、と考えるのです。
 飛躍しているのは承知ですが、その間をつなぐものを示せば、それは「書き言葉的思考」です。これについてはウォルター・J. オングの『声の文化と文字の文化』が必読1ですが、文字を持つ世界の思考と、識字能力のない人々では、思考様式そのものが大きくことなります。そして信仰というのは、識字能力のない人がほとんど、という状態から生まれて来たものです。
 文字を持たないことで何が違うかと言うと、カテゴリー的思考、抽象度の高い思考が著しく制限され、一方で状況依存的な発想が長じている、ということがまずあります。
 以前にも引用した箇所を再掲してみます。「ハンマー」「のこぎり」「丸太」「手斧」の絵を見せ、「仲間はずれを探せ」をやってもらった時のことです(もちろん正解は「丸太」)。

読み書きのできない二十五歳の農夫はこう答えている。「みんな似たり寄ったりだよ。のこぎりは丸太をひけるし、手斧だって丸太をたたき割れる。どっちか捨てろっていうんなら、手斧かな。のこぎりのほうがいろんな仕事ができるもんな」。ハンマーも、のこぎりも、手斧も、みな道具だと聞かされても、かれは、そういうカテゴリーによる分類には関心を示さず、あいかわらず状況依存的な思考にこだわりつづける。「なるほどね。でもあれだよ、道具なんかあったってそれだけじゃどうしようもないぜ。やっぱり材料がなきゃはなしにならないよ。第一それがなきゃ、なんにも建たないだろ」。(…)そのうち一つを他の人間が除外したのはなぜかと問われて、かれはこう答えた。「きっと、そうした考えかたがそいつの血のなかにあるからだろうよ」と。

 この農夫に「あなたは動物に似ていますね」といったら間違いなくブン殴られますが、これがわたしには、グランディンが指摘した「動物的発想」とクロスオーバーして見えてならないのです。そしてそれは、わたしの中では、アスペルガー的なるものと連なっています。
 
 このポイントが重要なのは、聖典というものが、「文字を読めないこと」を前提としてある、ということです。
 クルアーンを、特に翻訳で読まれれば、誰もが「何と退屈な本なのか」と驚くでしょう。こう書いたら他の真面目なムスリムの方に怒られるかもしれませんが、わたしは最初そうでした。クルアーンのロジックの内側に入らないまま、「一般の本」と同じ視点で眺めていると、主題ごとの整理はないわ、同じことばかり書いているわ、ストーリー的展開はほとんどないわ、まったくもって読みにくいこと甚だしい、というのが、極普通の現代人の感想のはずです。
 こうした読みにくさ、逆に内側に入った時の圧倒的な力と美しさ、というのは、クルアーンが「音」から出来ていることに由来するでしょう。
 考えてみて下さい。わたしたちは文字を知っていて、覚えておくべきことがあれば、書き留めることができます。他人の書いたものを読むこともできますし、今なら本すら開かずGoogle様にお伺いを立てるだけで、相当の情報を手にできます。
 一方、文字が使えない状況で、何とか多くの情報を蓄えておこうとしたら、どうするでしょうか。
 リスト的に整理する方法だけでは、暗記に限界があります。自然に頭に刷り込み、定着させるには、節を付け少しずつ変えながら反復する、という方法を採るはずです。みんなが試験前にやった、語呂合わせとか「スイヘーリーベーボクノフネ」みたいなアレです。
 聖典は元々声に出して読まれるもので、クルアーンは今でも音声が重要視されています。書かれたクルアーン(ムスハフ)は、言わば「楽譜」であって、本体は発声された「音」です。
 この世界を律するロジックを理解するには、一旦書き言葉を前提としたリスト的・カテゴリー的発想を括弧に入れて、「文字なき人」の心に近づいてみるべきです。
 
 「なんでそんな要らんことせなアカンねん、別にわかんなくてもいいわ」と言われるかもしれませんが、「文字なき人」の心というのは、「文字の読めるわたしたち」に圧倒されて目立たなくなっていますが、わたしたちの心の奥の方に、今でも生きているのです。
 ちょうど「古い脳」の上に人間的な大脳新皮質が発達していっているように、意識の上で目立つのは「文字の読める」心ですが、実のところ、もっと根本で「文字なき人」の心が下支えしているのです。
 信仰がコミットするのは、この部分ではないか、とわたしは考えます。
 この部分だけ、というのではありません。ですが、長い長い信仰の歴史、長い長い人間の歴史の中で、ほとんどの部分は、この部分との対話にほとんどの精力が費やされて来たのは、確かなのではないかと思っています。
 余談ながら、昨今見られる「イスラームは近代科学によっても証明される」だの、無理やり西洋近代思想と繋げようとしているような発想は、表面の方の「文字心」に依存しすぎた結果のように見えます(平和的共存のための方便としてなら、むしろ肯定的に受け止められるし、そうした努力は評価したいですが)。また、イスラームに限らず、一部のカルトのような類は、「文字心」の上澄みの上澄みが歯止めなく暴走した慣れの果てではないでしょうか。
 
 グランディンのところに戻ると、彼女は家畜施設の設計などで活躍されているのですが、「残酷ではない屠殺方法」について、多くの論考を捧げられています。これはとても面白いところで、「愛玩動物」的な発想であれば、「動物の好きな人が動物を殺す仕事をしているってどういうこと?」となるでしょう。
 彼女にとって、「自分に似たものとして愛すべき動物」と、「食べられるものとしての動物」というのは、連続しているのです。
 現代社会では、食品としての「肉」と、動物は潔癖なまでに分離されていますし、人の死すらも隠蔽されています。ですが彼女は、その二つが連続した世界を生きていて、多くの現代人なら間で葛藤するはずの矛盾を止揚しているわけです。というより、初めからそこに矛盾を感じていないのかもしれません。矛盾を作ったのは、わたしたちの側なのですから。
 わたし個人は、肉を食べなくても苦にならない質ですが、現実問題として、人は生き物を殺して生きています。一方で、生き物を愛でる気持ちもある。正確には、殺して生きるからといって、愛でる気持ちを捨てる必要はないし、愛でるあまりに潔癖になってしまう必要もない。むしろ、両方を一度に見るから、殺しすぎず、恵みを理解し、本当の意味で愛することができるはずです。
 イスラームでは「殺し方」が大切になりますが、奇しくもグランディンも「殺し方」に執心しています。愛でるからこそ、その死とも共に生き、殺しすぎず、殺し方を考える。
 清水芳見さんが『アラブ・ムスリムの日常生活―ヨルダン村落滞在記』という本の中で、お世話になったおじいさんが、可愛がっていた山羊を食べてしまう場面のことを書かれています。氏は信じられない思いで見ていたようですが、おじいさん曰く「あんなに可愛がったのに、こんな固い肉しか寄越さないなんて」。この連続ぶりは凄いです。
 正直、わたしには山羊を殺す根性があるかと問われれば自信がありませんが、少しでもそういう連続性を感じられるようになりたい、とは思っています。
 
 人間を「幼体成熟」と指摘する考え方があります。子供のまま大きくなっている、という意味です。
 ヒトがそういう生き物として創られているのなら、子供なのは仕方ないのでしょう。
 でも、ちっこい動物なりに、なるべくおっきい動物を真似て、「良いどうぶつ」になれるよう、やっていきたいです。
 大人は学校に行かないように、動物は卒業しているので信仰も要らないのでしょう。わたしはまだ小さい動物なので、神様にもらった教科書を持って学校に行きたいです。

  1. 『声の文化と文字の文化』のエントリおよび読み書き能力と状況依存的思考 A・R・ルリアの調査から参照 []
スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする