寄付の使い道とエロス

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 寄付金や募金の使い道が問題になることがあります。
 実際、人の善意につけこんでアコギな「募金ビジネス」をする輩もいるようで、こういう告発や調査には一定の社会的価値があるでしょう。
 ただ、「キチンとした目的に使ってくれ」的な思いが厳密になりすぎると、寄付の根本的な捉え方として、奇妙なものに見えてきます。
 世俗「先進」諸国における寄付とは、お金持ちの道楽というか、要するにお金を通常のモノやサービスに使う代わりに、「寄付」に使って自尊心やら社会的尊敬を買う、という性質のものになっているきらいがあります。
 「それでもお金が集まるなら結構じゃないか」というのは一理ありますが、こうした「寄付」しかないのだとしたら、この「寄付」は既に市場経済的発想の掌の中に収められているのであって、交換様式としては一元的にすぎないことになります。
 
 「匿名の寄付こそが真の寄付」という心意気そのものは、少なからぬ人々に理解されていると思いますが、この心意気が評価されるということは、実際にはこれはなかなか難しい、ということです。
 誰も知らなくてもアッラーだけはご存知ですから、「人知れずガーンと寄付してアッラーからポイント買ってやったぜ、へっへっ」とエゴイスティックな動機で寄付しても良いんじゃないかと思いますが、信仰心と勢いがないと容易ではないでしょう。

 これを「エゴイスティック」と書いてしまうと、イスラームの側から批判されそうですが、わたしは寄付とか喜捨というのは、パンキッシュでエロティックな行為だと考えています。
 お金を出してモノやサービスを買う、という交換様式は、とてもスマートで楽チンで便利なものですが、これだけだと退屈です。退屈というのは致命的で、下手をすると本当に死にます。退屈しないためには、交換様式のチャンネル、つまり人との繋がり方を多重化し、「すっきり行かない方法」を併用しておいた方が良いのです。
 「すっきり行かない」が何故良いのか、と問われると難しいのですが、逆に極端に考えて、「すべての欲望が瞬時に叶えられる者」がいたとしたら、その者には完全な自由があるように見えて、実は全然自由ではないでしょう。なぜなら、わたしたちの欲望とは、脳の中の小人さんから自動的に沸き出てくるものではなく、人やモノとの繋がりの中で間主観的に形成されるものだからです(そもそも「語るわたし」そのものが「間主観的」ですが)。
 「すっきり行かない」面白さというのは、色々な人が色々なところで体験しているでしょうし、この面白さの恩恵に預かれない人は既に病気になるか自殺して死んでいるんじゃないかと思うくらいなのですが、人の間をわらしべ長者的に渡り歩いて(たらい回しにされるとも言う)いる内に、当初欲しかったものは手に入らなかったのだけれど、代わりにヘンなモノを手に入れて、この方が余程面白い、という現象がしばしば見られます。というか、エジプトなんかだとシステムがヘボすぎてこっちが基本です(笑)。互酬のことを最近ちらっと書きましたが、これも同根ではないかと思います。
 「すっきり行く」チャンネルの過剰な偏重の背景には、自律的個人というファンタジーへの偏愛が覗けます。わたしたちはそんなにバラバラにはできていません。このファンタジーからは、自己責任という例のお話が出てくるのですが、このことは何度も書いているので割愛します。
 
 話が逸れましたが、寄付がパンキッシュでエロティックというのは、「すっきり行く」チャンネルに対して「要らんコトしぃ」な要素があるからです。お金持ちが豪邸と外車に飽きて名誉を買うようなものは、寄付として全然面白くありません。いや、そういう寄付だってやって良いのですけれど、別に楽しくないです。貧乏人がないお金から無茶して喜捨して、家に帰って奥さんに怒られる、みたいな方がメチャクチャで楽しいです。実際、貧しい人の方が助け合うスピリットが多いように見受けられます1
 
 イスラームのザカートは「義務」で(サダカは任意の喜捨)、世俗「先進」諸国的価値観からすれば「喜捨が義務とはどういうこっちゃ」と見られるでしょうが、おそらく根本にあるのは性弱説というか、人間は弱くてダメなヤツ、という思想で、ついケチケチしてしまいがちになるから、ケチすぎにならないよう助けてあげている、ということではないかと思います(厳密な背景は知らない)。「ケチはあかん」というのは非常に基本的な教えで、かつイスラームに限った話ではありません。ケチは大罪です。
 ケチからの救済、という視点と同時に、楽しく生きるチャンネルを強制的に開く、という見方もできそうです。
 「義務で取り立てられるのに楽しいわけがない」というのは早計で、それこそ「すっきり行かない」楽しさと同根で、無理やり起動されたものが結果的に自由に手にした喜びに繋がる、というのは珍しいものではありません。むしろ当たり前のことで、これを奇妙に見てしまう発想の方が、自律的個人のファンタジーに毒されているのです。
 以前に友人が「入って損したお風呂はないメソッド」という話を教えてくれたことがあります。「お風呂に入るのは面倒臭いけれど、入ってみて後悔したことはない」というお話で、面倒臭いこともやってみると勢いがついて何だか楽しくなってくる、ゴチャゴチャ考えているより取り敢えずやってみろ、という、森田療法というか体育教師というか、そういう不合理だけれど結構有効なモノの考え方のことです。
 
 大分大回りしてきましたが、寄付について、その使い道がどうとかいうのを、あんまり細かくチクチクしてしまっては、寄付のダイナミックな性質が損なわれてしまいます。平たく言えばつまんないです。
 募金詐欺みたいなものは存在するし、はっきり言ってイスラームの中でも怪しげな喜捨の使い道をしている、という人はいるんじゃないかと思うのですが(笑)、まぁやってしまった寄付についてゴチャゴチャ言っても面白くない。というか、寄付とか喜捨というのは、バーンと出してしまうところが大事で、ここにエロティシズムが宿るのであって、その後何に使われたか、有効利用されたか、というのは、エゴイスティックな観点からすれば、本来どうでも良いことです。
 「後は野となれ山となれ」になりすぎても困るし、国家のような枠組みがシステマティックに行う「援助」などは、はっきり言って単なる「交換」の延長であって、「交換」的な厳密さで監視する必要があると思いますが、本来の寄付というのは、かなり無茶で、ちょっと頭の悪いくらいの方が値打ちがあるのです。
 「お金を貸す時はあげるつもりで貸せ」と言いますが、寄付する時も寄付した時点でサヨウナラ、という勢いでいいんじゃないでしょうかね。
 もっと言っちゃえば、募金詐欺みたいな商売があってもまぁいいんじゃないか、と思っています。詐欺も商売と言えば商売ですし、大体「詐欺ではなく正当」と言われているビジネスだって化かし合いみたいなものですから、良いことした気分にさせてあげているだけ、募金詐欺なんて可愛いものですよ。
 実は金持ちの乞食と、アホなお金のやり方して奥さんに怒られてるオッチャンの世界で、千年くらい変わらない調子でやっていればいいんじゃないですかね。

  1. これも不思議なことですが、自分自身を振り返っても、真面目に働いてそれなりにお金がある時より、カツカツで生きている時の方が無茶して人を助けたりしている気がします []