同一化に理由はいらない、理由っぽく見えるものがあればいい

 最近、「晴れた日にお布団を干していると、女としての喜びを感じる」といった内容に対し、「そういう喜びは男でも普通に感じるのだけれど」という指摘をされているエントリを見かけました。
 これがどこにあったのか、多分Twitter上かはてな界隈だったと思うのですが、サッパリ思い出せません。ですから、もしかすると細かい部分は記憶違いになっているかもしれません(知っている方は教えてください)。
 最初の発言をした女性が、布団を干す喜びを女である喜びに結びつけたのは、普通に考えて、男女の性役割というコンテクストを背景として、そうした連想に至ったものと思われます。
 これに対する「男でも感じる喜びなのに、女であることに結びつけるのはどうなの」というツッコミは誠に尤もで、確かに晴れた日に布団を干して感じる爽快感に、男も女もないと思います(男女に関わらず「そんなことどうでもいい」という人もいるでしょう)。
 しかし同時に、その「冷静に考えたら男女に関係ないやろ」なことを「女の喜び」「女としてのアイデンティティ」に結びつけることには、一周回って理合があります。
 というより、アイデンティティというものは、合理的に考えると筋の通らない根拠に基づいているもので、むしろ筋が通ってしまっていては上手くいかないのです。
 「背が高いから電車の網棚に荷物を置くのが楽だ」というのは誠に筋が通っていますが、そんなことで「背が高い」ことに同一化する人はいません。
 日本国籍を所持していることで、例えば第三世界の国々などで良い扱いを受ける機会というのはありますが、その時、こうした環境を作ってくれた先人に感謝することはあっても、日本人としてのアイデンティティには直結しないはずです。なぜなら、ここにあるのは「得した」「警備の人にフリーパスが効いた」という単なる功利的な損得であって、愛ではないからです。
 「味噌汁が美味い、日本人で良かった」という方が、余程日本人としてのアイデンティティ強化に繋がります。冷静に考えれば味噌汁の美味しさを理解するのに日本人である必要はないし、日本人以外でも味噌汁が好きな人はいるし、日本人でも嫌いな人はいます。しかし、こうしたちょっと不合理なくらいのキッカケの方が、愛の強化には役立つのです(まるっきり根も葉もないと流石に厳しいでしょうが)。
 アイデンティティというのは、自らが属している、あるいは自らの属性の一つである何らかの要素に、自己の根拠を預けることです。ある小さな欠片と結びつきファンタジーを形成することです。この結びつきには、根拠があるように「見える」必要はありますが、文字通りの合理的根拠がある必要はありません。それどころか、合理的にスッキリ解説できてしまうような根拠では、そこで話が終わってしまい、愛想入り交じった強い感情的繋がりを生みにくいのです。
 件の女性が布団干しと女性性を結びつけた背景には、社会的な性役割のステレオタイプがあり、これが一応のキッカケにはなっています。しかしこんなものは後付けの理屈であって、とにかく彼女は、その時「わたしは女だ」と感じてしまったのです。
 この同一化は愛の営みであって、合理的理屈というのは後付け程度にあれば十分で、ありすぎてはいけません。「何であの人が好きなの」と問われれば、「優しいから」とか「背が高いから」とか色々言うものですが、背の高い男なんてナンボでもいるし、本当の意味での理由ではありません。逆に「自分の好み」の条件をExcelかなんかでまとめて、登録者の中から「この人が最適です」とか選ばれても、一発で恋に落ちる人はあまりいないでしょう。
 ただ、何の根拠もないと思うと寂しい気持ちになってしまうので、「理由っぽく見える」ものは必要です。そして、これをさも尤もな理由であるかのように認め合うことで、人は根拠を得て生きることができるのです。
 味噌汁を飲んで日本人を感じているオッサンは鬱陶しいですが、せっかく自分を騙せているのですから、野暮なツッコミをしてはいけません(笑)。

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする