アッラーの許しなく誰がピンハネできよう

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 شفعという単語があります。
 「倍にすること、二回すること、加えること」という意味(マスダルشفع)と、「執り成す、仲裁する」という意味(マスダルشفاعة)があります。前者の名詞形は「対、偶数」という意味になります。
 二つの意味の動詞は辞書上一つの項目になっていますし、意味からいっても同音異義ではなく同根のものなのでしょう。
 執り成すというのは二つの間をつなぐもの、2という数字は水平化、連続、女性、イマジネールなものを連想させます。
 偶数の反対の奇数はوترで、イシャーゥの義務の礼拝の後の慣例の礼拝をウィトルの礼拝と言って、奇数ラクア(普通は三回)行われます。これが奇数回なのは、アッラーの唯一性(1)を表象しているそうです。
 3は明白にファリックですし、1は数としての性質が前景化しないので、その次の奇数の3が神の唯一性を代理するのは直観的によくわかります。ちなみに、セム系一神教という意味ではルーツを同じくするキリスト教が、三位一体という考え方を採用するに至ったことは面白いです。決して「2」にはなりません。

 شفعという単語はクルアーンにも数多く登場し、そのほとんどは「執り成す」という意味です。

أَمِ اتَّخَذُوا مِن دُونِ اللَّهِ شُفَعَاءَ ۚ قُلْ أَوَلَوْ كَانُوا لَا يَمْلِكُونَ شَيْئًا وَلَا يَعْقِلُونَ
かれらはアッラー以外に,執り成す者を求めるのか。言ってやるがいい。「かれら(邪神たちに)は何の力もなく,また何も理解しないではないか。」(39:43)

قُل لِّلَّهِ الشَّفَاعَةُ جَمِيعًا ۖ لَّهُ مُلْكُ السَّمَاوَاتِ وَالْأَرْضِ ۖ ثُمَّ إِلَيْهِ تُرْجَعُونَ
言ってやるがいい。「執り成し(の許し)は,凡てアッラーに属する。天と地の大権はかれの有である。やがてあなたがたはかれの許に帰される。」(39:44)

وَلَمْ يَكُن لَّهُم مِّن شُرَكَائِهِمْ شُفَعَاءُ وَكَانُوا بِشُرَكَائِهِمْ كَافِرِينَ
そしてかれらが(われに)配した(神々の)中には,かれらのために執り成す者

 非常に重要な台座のアーヤにも「アッラーの許しなく誰が執り成せよう」という内容があります。

 執り成しは「2」ですが、それは「1」の介入によって成り立つもので、根底にあるのは「1」です。3がファルス、4が結婚だとすると、奇数という「飛び出した」不安定状態を介して偶数の安定に戻る、という運動を繰り返している様相がイメージされます。
 安定し、イマジネールな「現実」を得られるのはアッラーの「執り成し」があるからで、他の何者もアッラーの許しなく「執り成す」ことはできません。
 この「執り成し」が非常に重要な能力として度々取り上げられているのが、刺激的です。「執り成す」ことは「許す」ことにも繋がりますが、「許された」安定状態というのは、罪を負った、あるいは「何かが付加して不安定状態にある」者、その者が「許す者」と一対一で向きあって「許してください」というのとは、少しだけ違うのです。実際には「許してください」という振る舞いはイスラームの中にも外にも沢山ありますが、そこで「許す」ということは、二つの間をとりもって(仲裁、執り成し)「安定」状態に戻すことであって、「罪を追った(何かが付加して不安定状態になった)者」「許す者」「くっつけられるもの」の三者関係と言えます。
 何がくっつけられるのかと言ったら、世界から〈わたし〉を引いたものでしょう。どちらも不安定状態にあって、奇数です。1と3があって、3の方にくっついてしまった余計な1を引いて、平均して2にするような感じです。
 わたしたちの自我に由来する「苦しみ」が、言わば世界に対し〈わたし〉という余計なものがくっついていることから始まることを考えると、何となくストンと落ちるものがあるでしょう。

 شفعが「偶数」の意味で現れる箇所と言えば、سورة الفجرの

وَالشَّفْعِ وَالْوَتْرِ
偶数と奇数において(誓う)

 をすぐ思い出します。
 アッラーは一者であり奇数ですが、奇数の介入により偶数と奇数が支配される。世界があるということは、無の状態に対し一者が入り込む、つまりそれ自体が一つの「不安定」と考えられます。これは、世界に対し〈わたし〉という点が介入するのと等価です。

 شفعは偶数ですが、執り成されるのは「二者」でも、両者は多分両方とも「奇数」状態で、それらがくっついて一時的に安定状態に戻る。そういう連鎖がどんどん続いて、ネットワーク化していく。そうした世界のイメージが浮かびます。
 わたしたちが世界の中で活動するということは、何かと何かをつなげるということです。一見すると自分と対象の二者関係のようですが、実は単に間に入ってつなげているに過ぎない。
 基本の構造は「商業」であって、つまり二者間の差分みたいなものを利用して生きています。イスラームはとりわけ商業と結びつきが強いですが、その発祥の地となった文化でواسطة(ワーシタ、ワスタ、仲裁、コネ)が重視されているのも示唆的です(これは要するにコネ文化ということで、悪い面も大いにあるわけですが)。
 つなげて生きる、とりもって生きるというのは、つまりピンハネです。
 ピンハネというと悪いイメージしかありませんが、わたしたちはみんなピンハネして生きているわけであって、結局のところ「ピンハネの仕方に仁義を通せ」ということしかないはずです。
 とりわけ日本では「生産し対価を得る」という考え方が強いので、ピンハネとかボッタクリには強い倫理的反感があるように感じます。それはそれで間違いではないし共感もするのですが、生の基本がピンハネ的なるものである、というのは忘れるべきではありません。
 開発の世界で「スーツ」と「ギーク」が対立すると、清く正しく生産するギークは、ピンハネしているだけのスーツや営業を小馬鹿にするものですが(この感覚も勿論理解できる)、営業がなければモノも売れないばかりか、何も生産していなくても営業さえあれば商売というのは成り立ちます。右から左にモノを動かせば良いのですから。逆にいくら生産しても、つなげる力がなければ在庫が溜まっていくだけです。
 ですから、一見すると基本にあるような「生産」というのは、実はピンハネ的なものの後に来るのであって、極端な話、落ちているものを拾って誰かに売りつけても生きることができるのです。これもピンハネです。原初にあるのはピンハネであり、仲介です。
 だからこそ「ピンハネ仁義」が大事なのであって、「アッラーの許しなく誰がピンハネできよう」という教えがあるのだと、わたしは勝手に考えています。
 いや、これはいくらなんでも酷い言い方ですが(笑)、考え方の基本は間違っていないつもりです。



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