戒律以前のイスラーム、ケチはあかん

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 相変わらず、イスラームというと五回の礼拝がどうとか断食がどうとか、そういうところからしか見られない上、無遠慮に他人の信仰実践に介入する(これは非常に失礼なこと)人が日本には多いです。まぁ、イスラームのみならず信仰というものに縁遠い見捨てられた地の声としては致し方ない気もしますし、非ムスリムの日本人ばかりも責められません。というのも、ムスリムが多数派の国に済むボーンムスリムも、イスラームについて語るとなると、こういう教科書的で分かりやすい部分を誇らしてに説いて回ることが多いからです。
 自分のよく知らない領分だから、というのもあるでしょうが、日本人の生真面目で馬鹿正直な性質が災いしてか、ルール的なものがあると、それは100%ルールなのだ、入ったら守らなければ悪、だから入らない、となるのかもしれません。
 いや、確かに「ルール」的なものはあるし、かつ義務であるのも本当です。世界中どこのムスリムに聞いたって、サラートもサウムは義務だと答えるでしょうし、わたしだってそう答えます。
 しかし「義務であること」と「義務を100%守っていること」は別の問題であって、守れる場合もあれば守れない場合もある。ムスリムが多数派の国を一度でも訪れたことがあれば、すぐにわかることです。
 ここで大事なのは、「守れない(あるいは守らない)」ことと「尊重しない」ことは異なるということです。
 わかりやすい「戒律」にばかり目が行く可哀想な人たちというのは、「ルールなのだから、守らないということは尊重しないということだ」と思ってしまっているのかもしれません。実定法的な考え方だと、そういう割り切りもわかりますが、こと戒律やシャリーアについて言えば、守れなかったとしても尊重して「大丈夫」だし、逆に言うと、「尊重」さえしていれば、守れたり守れなかったりしていても、そうそう非難されるものではありません。原付の法定速度とは違うのです。30キロで走っている原付なんていないしそもそも現実的ではない、だから「法定速度30キロなんて名前だけだろ」というのは個人的には同意しますが(笑)、戒律についてはまったく当てはまりません。
 
 では形がどうでもいいのかというと、全然そうではありません。
 一応留保しておけば、一般的な「戒律」を八割方クリアする程度なら別に難しいことではないし、断食が大変とか言ってる人はアホちゃうかと思うのですが、それはともかく、確かに形式的なものより「内面の信仰」や意志(ニーヤ)が重要だろうとは思います。だからといって「ニーヤがあれば何でもオッケー」と言ってしまうことはできません。「外面に内面を合わせよ」でも書きましたが、内面なんて掴みどころのないものを基準にしては、合わせ鏡の地獄に陥るだけで、そこに大事なものがあると想定されたとしても、基準はあくまで外になければなりません。形が整うから中身がついてくるのであって、「中身が大事」などとのたまわって鵺のような世俗化信仰を都合の良い時だけ持ち出すのは信仰ではありません。中身は形よりもっと難しいのだから、簡単な形からまずやったら良いだけです。形のないヤツは必ず内面もグダグダです。
 ですから「形のことばっか言うな」とはいっても形がどうでもいい、というわけではなく、形の重要性を声高に叫びながら結構抜けている、そういう種類の緩さには寛大であれ、ということです。逆に言うと、できないことでも言わなければならない。これは本当に重要で、できないなら言わない、ということより、たとえできる自信がなくても、為すべきことは為すべきこととして堂々と断言しなければならない
 日本には「できないなら言わない方が正しい」と感じる人が多く、かつアラブ人の一般ボーンムスリムなどが異様な自信に満ちてできもしないことを断言するものだから、「こんなに立派なことは到底自分にはできない」と拒絶してしまうのかもしれませんし、まぁ気持ちはかなりわかるのですが(笑)。
 
 と、形の重んじ方の様式について長々と前置きした後、もうちょっと形になりにくてかつ重要なことについて少し考えてみます。
 ある先輩ムスリマが「日本はまだまだイスラームが浸透していなくてマッカ期のようなものなのだから、まずマッカ期のエッセンスの部分から入る方が良い」といったことを仰っていて、まったく同感でした。
 マッカ期というのは、預言者ムハンマドがマディーナ(ヤスリブ)にヒジュラする前のイスラーム草創期のことですが、この時期に下った啓示というのは、クルアーンの中でも後ろの方にあって(クルアーンは大体時代順に逆に並んでいる)、断章的で短く激烈で覚えやすいものが多いです。普通のムスリムは、この辺の短いスーラ(章)から覚えていくもので、この時期の啓示には日本人がすぐ注目する断食がどうの礼拝の時間がどうのといった細かいことは全然含まれていません。
 最初期の啓示では「良い信仰者」と「悪い不信仰者」の対比が繰り返し現れ、まぁ悪いヤツは地獄に落ちるよ、というようなことが言われているのですが、その「悪さ」とは何かということについて、わたしが最も印象深く受け取るのは、「ケチはあかん」というメッセージです。
 他にも「悪い」ことは色々あるのですが、もう繰り返し繰り返し「ケチはあかん」ということが語られています。
 「選ぶ自由ではなく選ばれてある自由」でも少し触れましたし、これまで何度となく話題にしてきたことですが、人間、現世でうまく行ったからといって、その成功は自分一人の力によるものではなく、多くの人の助け、何よりアッラーの恵みあってのものです。アッラーから貰ったものはアッラーに返すのが当然であって、一人で独占するというのは一番いけないことです。
 アッラーと言われて引いてしまうようなら、「みんな」の力で手に入れたものは「みんな」に返す、と思えば良いでしょう。
 逆に言えば、失敗したのもその人一人の責任ではないし、「自己責任」などという世俗権力に都合の良い詭弁に騙されてはいけません。その人の責任もあるでしょうが、みんなの責任でもある。だからみんなでフォローしないといけない。失敗することより、失敗を恐れて介入しない、お節介を焼かない人の方がずっと罪深いです。
 ですから、とにかく「ケチはあかん」です。ケチというのは、成功も失敗も自分ひとり、という驕り高ぶりの最たるものです。
 
 イスラームが細かいことばっかりグダグダ言っていると勘違いしている人は、そういうことは一回忘れて、とりあえず「ケチはあかん」というのだけ覚えてみたらいかがでしょう。それだけでもムスリム第一歩なんじゃないかと思います。
 まったくの個人の責任において荒っぽいことを敢えて言いますが、「ケチはあかん」に比べたらお酒がどうの豚肉がどうのなんて二の次だと信じています(偉い先生に公式の場で尋ねたら「そんなことない」と言われますよ、勿論w)。神様だってそれを最初に伝えているんですから。