読み書き能力と状況依存的思考 A・R・ルリアの調査から

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 前回に続き、ウォルター・J. オングの『声の文化と文字の文化』についてです。

 一次的な声の文化における思考様式が「状況依存的situationalであって、抽象的ではない」ではない、とはどういうことでしょうか。
 ここでオングが援用しているのが、A・R・ルリア『認識の発達ーその文化的、社会的基礎』です1。これは1931年に旧ソ連のウズベク共和国とキルギス共和国の奥地で、読み書きのできない人々に対して行ったフィールドワークの報告です。
 ここから引かれている具体的例が、非常に興味深いのです。

1)抽象図形の認識

読み書きができない被験者たちは、幾何学的な図形を識別するのに、それぞれの図形に諸対象の名前をあてはめることによってし、けっして、抽象的に、円、四角形としては識別しなかった。円は、皿、ふるい、バケツ、時計、月などと呼ばれ、四角形は、鏡、ドア、家、アンズ乾燥板などと呼ばれた。

2)カテゴリー的思考と操作的思考

 一つだけ「仲間外れ」のある四枚のカードを渡し、それをカテゴリー分けするよう指示する実験の報告です。
 例えば「ハンマー」「のこぎり」「丸太」「手斧」を与えると、読み書きのできない被験者は、「丸太だけは道具ではない」といったカテゴリー的思考をしなかった、というものです。

読み書きのできない二十五歳の農夫はこう答えている。「みんな似たり寄ったりだよ。のこぎりは丸太をひけるし、手斧だって丸太をたたき割れる。どっちか捨てろっていうんなら、手斧かな。のこぎりのほうがいろんな仕事ができるもんな」。ハンマーも、のこぎりも、手斧も、みな道具だと聞かされても、かれは、そういうカテゴリーによる分類には関心を示さず、あいかわらず状況依存的な思考にこだわりつづける。「なるほどね。でもあれだよ、道具なんかあったってそれだけじゃどうしようもないぜ。やっぱり材料がなきゃはなしにならないよ。第一それがなきゃ、なんにも建たないだろ」。(…)そのうち一つを他の人間が除外したのはなぜかと問われて、かれはこう答えた。「きっと、そうした考えかたがそいつの血のなかにあるからだろうよ」と。

対照的に、たった二年間だが村の学校で勉強したことのある十八歳の少年は、おなじように組になった絵を見せられると、それをカテゴリー別に分類しただけでなく、その分類にけちがつくと、自分の分類の正しさに固執した。

読み書きがかろうじてできる五十六歳の労働者は、状況にもとづくグループ分けとカテゴリーにもとづくグループ分けとをいっしょくたにしたが、それでも、後者の方が優勢だった。すなわち、「まさかり」「手斧」「鎌」という組みと、「のこぎり」「小麦の穂」「丸太」という組みを示されて、後者のグループからなにをおぎなえば、前者のグループは完全なものになるかと問われ、かれは「のこぎり」を選んだ。「こうすりゃ、みんな百姓仕事で使う道具になるだろ」。しかしかれは、それからまた考え直し、小麦についてこう付け加えた。「そうか、鎌があるんだからこいつを刈ることだってできるなあ」。抽象的な分類だけでは満足できなかったのである。

ルリアは、被験者たちとのやりとりのなかで、読み書きができないかれらに、抽象的な分類のしかたの原則をいくつか教えようとくわだてた。しかしかれらには、それを心底から理解することはけっしてできなかった。ふたたび自分の手で実際に問題解決をはからなければならなくなると、カテゴリーにもとづく思考ではないしに、またもや状況依存的な思考にかれらは立ち返ってしまう。かれらは、操作的な思考でないような思考、すなわちカテゴリーにもとづく思考は、重要ではなく、おもしろくもなく、どうでもいいものだと確信していた。

3)形式論理学的推論能力

 三段論法的思考は、わたしたちにとっては自明であり、人間の思考に生まれながらにして備わっているかのように錯覚することすらありますが、読み書きのできない被験者たちは、形式的な演繹的手続きにしたがって思考することが著しく苦手でした。

「貴金属はさびません。金は貴金属です。では、金はさびるでしょうかさびないでしょうか」。この質問にたいする典型的な反応として、つぎのようなものがあった。「いったい貴金属はさびるのさびないの。金はさびるのさびないの。どっちなんだい」(十八歳の農夫)。「貴金属はさびるよ。金だってさびるさ」(読み書きのできない三十四歳の農夫)。

 三段論法は自己完結的であり、その結論はその前提だけから引き出せる、というのは、高等教育を受けたものの「思い込み」に近いとわかります。そしてこの思考様式は、読み書き能力というものと密接に関連しているようです。

4)定義する能力

「木とはどういうものか、わたしに説明してみてください」。「なんでまたそんなことを。木がどういうものかみんな知ってるよ。だれもおれからそんな説明聞かなくたって困らないよ」。読み書きができない二十二歳の農夫はこう答えた。実生活の環境が、一つの定義で示しうるよりはるかに十分にみずからを示しているときに、どうしてわざわざ定義などする必要があるだろう。基本的に、この農夫の態度は正しかった。

5)自己分析能力、あるいは自己の存在そのもの

 読み書きのできない人に「あなたはどういう人ですか」と尋ねると、貧乏だとか結婚しているとか土地を持っているといった、外的な要素で回答することがほとんどだった、といいます。自己の長所・欠点についても、「内面」ではなく「もうちょっと土地が欲しい」など、外的な回答をします。
 さらに自己評価を尋ねる質問を重ねると、自己評価が外部からの集団評価に変じてしまいます。

「おれたちは、まっとうにやっているよ。もしもおれたちが悪いやつだったら、だれもおれたちのことを尊敬しないさ」

三十六歳になる別の農夫は、自分のことをどんな人間かと問われて、感動的で人間味のある率直さでこう答えた。「自分で自分の心はこうだなんて言えないよ。自分の性格はこうだなんて人に話せると思うかね。ほかの人にきいてくれよ。連中なら、おれのことをあんたにいろいろと話せるだろうから。自分からはなにも言えないよ」。

 ここから連想させられるのは、森田療法のような神経症の行動療法です。行動療法では、自らの生活を内面ではなく外面から考えるよう、認識を作り変えていきます。森田療法では日記を付けさせますが、「今日も何もやる気がしない。自分は生きていても仕方がない」といった「内面的」記述は求められません。「8時に起きた。川沿いに散歩した。後はテレビを見ていた」といったような、単純な行動記録が重んじられます。
 平たく言ってしまえば「考えすぎ」な病気を「考えない」ように治していくわけですが、そもそも自己というものは内側から湧き上がるものではなく、他者の語らいの中で生み出されるものです。そこから遡及的な逆転が起こり、結果として近代的自我のようなものが生まれるわけですが、これが行き過ぎると神経症や今日的な鬱病的状態に陥る危険も増大します。読み書きのできない人は、きっと神経症には陥らないでしょう。

 以上の全体から感じられるのは、まず、わたしたちの多くが当たり前だと感じている思考様式が、教育の賜物にすぎない、ということです。
 しかし、ここから得られるのは、そうした相対化の益だけではありません。
 ここに挙げられた「読み書きのできない人」的な思考様式というのは、実は読者の多くにとって、初めて目にするものではないのではないでしょうか。著しい程度の差はありますが、「話の通じない人」、特に理系人間的な方が文系人間や一部の女性に対して抱く「話しの通じなさ」の性質は、「一次的な声の文化」の特徴と、根底で連続しているような印象を受けないでしょうか。
 言うまでもなく、カテゴリー的思考・形式論理学的思考等は、わたしたちの知性を活用する上で、非常に重要なものです。読み書きに始まる抽象的思考能力がなければ、現代社会の文明など到底築き得なかったでしょう。
 一方で、余りに「読み書き的」能力の研鑽に明け暮れ、また周囲をそうした能力を得た人々により囲まれることで、「話の通じない人」に対する耐性が失われてしまっている面もあると思われます。「理系人間」をイライラさせる「状況依存的」思考というのは、別段珍しいものではないのです。とにかく存在するのですから、コミュニケーションを取ろうとするなら、彼・彼女らの思考様式というものをある程度学ぶ必要があります。そこで「バカは教育してやらなければ」という考えに陥ってしまったら、啓蒙の罠に嵌るだけです。

 最後に最も重要なのは、「状況依存的」思考が、抽象的思考に比べると稚拙で展開に乏しく映る一方、何か「一面の真理」を射当てている印象を与えることです。「道具なんかあったってそれだけじゃどうしようもないぜ。やっぱり材料がなきゃはなしにならないよ。第一それがなきゃ、なんにも建たないだろ」などというセリフには、むしろ不思議な深みさえ感じられます。
 状況依存的な思考、それは確かに応用が利かないのですが、一方で実際に彼・彼女らが出会う日常、つまり長い長い人類の歴史の中で主たる生活場面であったような世界、そうした現実に深く根を下ろしていて、力強いのです。詩的フレーズに感銘を受けるような時、わたしたちの奥底を揺さぶっているのは、こうした思考の持つ「太さ」と通底する何かではないでしょうか。
 強く太い言葉には、問いを封じる力があります。身も蓋もない、と言ってしまえばそれまでですが、「きっと、そうした考えかたがそいつの血のなかにあるからだろうよ」などと言われてしまうと、問い自体が脱臼させられ、小賢しい思考を続けることができなくなります。
 ジジェクが問いのもつ「恥知らずな」性質についてよく語っていますが、問いというのは、問いを封じる力が同時に備えられなければ、どこか破廉恥なものになります。そして破廉恥さが極まったものが、神経症的な袋小路であり、さらに現代的には、器質的・「動物的」・脳的な病理なのです。抽象思考は「人間ならでは」のものですが、その「人間性」が極まると、逆に「人間らしさ」が損なわれる、という逆説が待っています。問いを封じる力、象徴的なもので象徴的暴走を規制する機構が破綻してしまっているからです。

 個人的なことを書いてしまえば、たぶんわたしは、人一倍「読み書き的」な風土の元に育ち、一定の年齢までそうした性質を盲信していたように思います。そこから得られたものもありますが、一方で何かカタワ的な、バランスの悪い病的人間に至りついてしまった気がします。
 そうした反動から音声的なものや身体的なものに焦がれるのは、まったく傲慢で青臭い復古趣味にすぎないかもしれません。単なる私的な「セラピー」かもしれません。それでもやはり、「声の文化」に代表されるような太い力に触れた時、一番心を動かされないではいられないのです。

  1. 英訳Cognitive Development: Its Cultural and Social Foundations A. R. Luria 1976。邦訳は認識の史的発達らしいですが、入手困難の模様。Wikipedia : Alexander Luria []