『イスラムの怒り』内藤正典 暴力だけが特別な悪なのか、因果律と責任

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4087204936イスラムの怒り (集英社新書 493A)
内藤 正典
集英社 2009-05-15

 内藤正典氏の『イスラムの怒り』。
 内藤正典氏の著作を読むのは初めてではなく、読む前から予想のつく内容ではあったのですが1、一応手に取ってみました。新書ですから当然ですが、イスラームについて一定の知識を持った人間にとっては、それほど目新しい内容があるわけではありません(もちろん、昨今のイスラーム情勢をきっかけに興味を持った方には、丁度良い入門書にもなります)。ちょっと言いすぎなんじゃないかな、という箇所もあります。
 ですから、ここでは気になったポイントを二つだけ取り上げておきます。「暴力だけが特別な悪なのか」という点と、因果律と責任についてです。

 Canal+というフランスのテレビに出演したジダンは、試合中にやってしまった頭突きという行為について謝罪した。(・・・)
 だがその直後、インタビュアーが、「では、頭突きを後悔しているのですか?」と尋ねると、ジダンは、「後悔していない」ときっぱり答えた。
「このような事件が起きると、いつでも、自分のように(暴力的に)反応した者が罰せられる。だが、悪意の挑発をした者は罰せられない。それは不公正だ。挑発した側も罰せられるべきではないか」

 一体いつ頃から、暴力だけが特別な「悪」になったのでしょう。
 もちろん、暴力がOKだとは言いません。また、暴力以外に「悪」がないと思っている人も、まずいないでしょう。
 ただ、少なくとも日本や欧米のような社会では、暴力を振るうか否かというのは絶対的な分水嶺で、物理的な力に訴えてしまった途端、法律的にも大衆倫理的にも「悪」への転落に抗うのは非常に難しくなります。日本では特にその傾向が強いように思います。
 端的に、物理的な力に訴えられたものは、行為そのものやそれによる被害の「証明」が比較的容易になる、ということもあるでしょう。物質的・計量可能なものが、そうでないものより「もっともらしい」のは昔からですが、目に見えないものまでが物質的に証し立てられるようになり、ますますここが「勝負の分かれ目」となったのでしょう。
 おそらくこれと並走しているのが、「表現の自由」でも触れた「言葉の力」の衰退です。ここで言う「言葉の力」とは、ロマン主義的に「言葉には力がある」などと言う時のそれ、つまり言葉が「主体」の御する範囲において「他者」に影響を与える、というような意味ではありません。そんな「言葉の力」は、言葉から主体が紡がれたずっと後で、遡及的に夢見られるファンタジーにすぎません。「言葉の力」は、わたしたちの意志と無関係に、わたしたちの行動を嵐のように翻弄するものです。それはわたしたちを語っている者の力であり、「わたし」に呼びかけ、この世界に引きずり出し、ある統語構造とディスクールの奴隷とする力です。
 この「言葉の力」が、相対的に弱体化していることと、暴力だけが特別な扱いを受けることは、パラレルな関係にあります。東浩紀風に言えば「動物化」かもしれませんが(笑)、計量可能な物質的領域に還元しようとする余り、その閾からこぼれたものの、サンボリックな領域における評価が下がっているのです。心的現象すら、脳などの器質的要因に還元されようとしています。この営み自体は歓迎すべきことですが、要素的還元には常に取りこぼしがあるにも関わらず、あたかもすべてが還元可能で、しかも一対一対応でもしているかのようなファンタジーが、独り歩きしているのです2
 暴力が「悪」であったとしても、それは諸々の悪のうちの一つにすぎません。そもそも「悪」はサンボリックな領域にしかないものであって(「日食は悪か?」)、暴力というのは表現形でしかないはずです。
 わたしたちの住む社会は、地理・歴史的にみて極度に「非暴力」的な社会です。このこと自体は歓迎すべきことでしょうが、その実サンボリックな力が見くびられている社会でもあるのではないでしょうか。「言うだけならタダ」のような「自由」なら、象徴秩序を軽んじる結果にしかならず、ひいては自らの首を絞めることになるでしょう。

 これと相関しているのが、因果律と責任、とりわけ因果律の過大評価です。
 内藤正典氏は、ムスリムの人口に占める割合の多い中東地域での車の運転について語っています。一般的に、彼らは非常に運転が荒い。乱暴な運転をすれば事故につながる、ということはわかっているのに、なかなか態度を改めようとしない。事故現場に出会えば悲しみを表すのに、相変わらず自分は粗暴運転。

 結論として、ムスリムは、私たちや西欧人に比べて、「因果律」というものを信じていないのではないか、と考えるに至った。
 理解できないわけではない。わかっても、行動に反映されないのである。(…)スピードの出し過ぎと事故とのあいだに、「相関関係」があることはムスリムにもわかる。しかし、因果関係というのは、ある原因があるとき、必ず決まった結果が起きることをいう。その意味でムスリムは、「因果関係」を重視しないのである。

 お断りしておきますが、ムスリムが「バカ」で因果関係を理解できない、という意味ではありません。理解はするけれど、わたしたちの多くとは位置づけ方が少し違うのです。

 ムスリムが自然科学を拒絶しているのではない。最先端の医療技術にも、ほとんど反対しない。キリスト教の一部会派のように輸血を拒否することもない。ただ、高度な医療で患者の生命が救われたとき、「神が救って下さった」という気持ちが必ずわき起こるのである。

 内藤正典氏は糖尿病を患っていたそうですが、その治療についてのこんなエピソードも収められています。

 摂生に努め、げっそりした私を一年ぶりに見たトルコの友人がニヤリと笑って言った。「おまえのような甘い(いい)男からは、糖が出るものさ」
 友人は、国立病院の内科部長である。私は、それまで、今日は何キロ歩いた、今日は何カロリー食べた、と神経質に高血糖の「原因」と闘っていたのだが、この一言は、私の頭を覆っていた鬱陶しい霧を吹き飛ばしてくれた。私は、久しぶりに心の底から笑った。
 私は尋ねた。「トルコの医者は、糖尿病の患者にそんなことを言うのか。そんなことを言ったら、患者は摂生しないだろう」
 彼の答えはこうだ。「私だって、西洋医学を学んだから、何が原因で、どういう結果になるか知っている。だが、弱っている患者さんを眼の前にして、因果関係をくどくどと言ってきかせるのは、非人間的だろ」

 なぜこの「因果律の過小評価」が、暴力の問題と関係するのでしょう。
 どちらも根底に、物質的基盤への完全なる還元、というファンタジーが流れているからです(「今はまだできなくても、いつかはできる」)。還元できたものは過大に評価され、そうでないものは瑣末事として扱われる。
 エヴィデンスが重んじられるのは当然でしょうが、逆に「それらしい」体裁を整えた「根拠」があれば万能の力を発揮し、そうでなければ歯牙にもかけられない、というのでは、お役所のテンプレートか何かのようです。
 これが「責任」と絡むのは、原因を握っている者にこそ責任が回付されるからです。正確には、そのように責任を回付せよ、というファンタジーにわたしたちははまり込んでしまっているのです。
 原因にはそのまた原因があり、究極の原因など知りようもないのに、なぜか適当なところで原因の連鎖がせき止められ「お前に責任がある」とされる。
 もちろん、責任を取る人は必要です。そうした社会秩序を否定しよう、というのでは毛頭ありません。しかし、そこで本当に責任が取りきれたのかというと、そうではありません。会社を辞めたり賠償金を支払えば、それで「ナシがついた」ということにしよう、という約束を生きているだけです。その約束がうまく機能するためにこそ、逆説的にも「約束は約束にすぎない」ということ、責任は取って取りきれるものではないのだ、因果律ですべてが説明できるわけではないのだ、という諦念に、いつでも立ち戻れる必要があります。

 わたしたちの社会では、究極の問いがその可能性すら蓋をされ、ただ約束の上澄みだけが回り、還元論のファンタジーがスモッグのように停滞しています。わたしたちは、そんなに何でもわかって責任が取れるものではないのです。言語の奴隷なのです。
 そうした根源的な弱さに目をつむっているから、いざ死に直面するような事態となって、慌てふためくのでしょう。ちょっとした人生の壁やアイデンティティ・クライシスにあって、チープなカルト宗教に言いくるめられてしまうのでしょう。
 わたしたちは弱く、未来のことは誰にもわからず、優しい言葉の一つも必要としています。邪悪な言葉で責められれば、殴られたほどにも傷つくのです。

 よく言われることですが、わたしはإن شاء اللهというアラビア語の決まり文句が好きです。未来について何か良いことを言う時や、約束をする時は、必ずこの文句を付けるのが「礼儀正しい」とされています。
 直訳すると「神様がお望みになるなら」ということで、しばしばアラブ人のいい加減さの代名詞とされてしまっていますが(笑)、どんなに一所懸命やっても、未来のことはわからないし、最後は神様にお任せするしかないのです。
 少なくとも、わたしの親しい範囲にいるアラブ人は、そうした謙虚さの表現として、このフレーズを使っています(そうではない人もいます(笑))。
 納期を守れなかったら腹を切るなり会社を辞めるなりするのが潔い、ということになっているのかもしれませんが、むしろ何でも思い通りになるという奢りの方が目につくことはないでしょうか。

  1. 内藤正典氏の著作は金太郎飴的なところがあるのですが(笑)、個人的にはNHKブックスの『イスラーム戦争の時代―暴力の連鎖をどう解くか』がお勧めです。あまりにイスラームひいきで辟易する部分もありますが、その辺は割り引いてやってください。イスラーム関係の研究者の中でも奇人ポジションと聞きますが、著作はどれも取っ付き易く、平易によくまとまっています []
  2. おそらく当の「還元的」研究をしている研究者たちは、そんなにナイーヴではないでしょう。問題はその成果の大衆的受容のされ方です []