すぐに晴らせなかった怨みは、もう別のものになっている

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 世界Aの始末書:怨みの抽象化?

 群馬県前橋市で、高校時代のいじめに対する恨みを晴らすために、刃物を持って母校に押し入ろうとした人のお話です。

小渕容疑者が勢多農林高校在学中にいじめを受けていたのだとしたら、いじめた当事者を探し出して刺しにゆくというのが、ふつうの“仕返し”なんじゃあるまいか?(・・・)あるいは、そうしたいじめを知りながら看過していた教師がいて、いまもまだ同じ学校で教えているというのであれば、その教師を刺しにゆくというのがふつうの“仕返し”ではなかろうか?

人は、集合の具体的要素を怨んでいるうちに、集合という抽象的なものを怨むようになってしまうこともあるものらしい

 非常に面白い指摘です。
 怨みというのは、放っておいてうまい具合に忘れてしまうこともありますが、忘れるどころかどんどん増幅して、そうしている内に当初の対象が抽象化し、よくわからない集合全体に対する憎悪へと変質してしまうことがあります。
 これを読んでいて思い出したのが、『葉隠』における、仇討ちについての山本常朝の見解です。
 こちらに有難いことに現代語注釈と共にテクストがあったので、引用させて頂きます。

「浅野殿浪人夜討ちも泉岳寺にて腹切らぬが落度也。又、主を討たせて敵を討つこと延延なり。若し其中に吉良殿病死の時は残念千万也。」
ところで、赤穂浪士の仇討も、泉岳寺で腹を切らなかったのが落度と言うべきだ。それに主君が死んで、敵を討つまでのあいだが長すぎる。もしもそのあいだに、吉良殿が病死でもなされたときにはどうにもならないではないか。上方の人間は小利口だから、世間から褒められるようにするのは上手であるけれども、長崎喧嘩のような無分別なことはできない。(奈良本辰也訳角川文庫『葉隠』)

 これは忠臣蔵について述べているもので、常朝は世間で持てはやされている赤穂浪士の仇討が「一年も待つなど遅すぎる」と批判しているのです。これに対し「上方の人間にはこういうことができないのだろう」として例に挙げているが、長崎喧嘩です。
 一七〇〇年(元禄十三年)十二月の出来事。長崎は深堀領主の家臣である深堀三右衛門(当時七十歳)が、雪解け道を歩いていたところ、町年寄である高木彦右衛門の使用人に誤って杖でをはねてしまいました。そこから口論となり、付近の住民の仲裁で一旦は収まるものの、その晩高木家の使用人らが深堀亭におしかけ、暴行を働いた挙句刀を奪っていきました。
 つまり、老いたりとはいえ、武士が町人にボコボコにされてしまったわけです。
 それを知った三右衛門の息子ら一族は怒り狂い、その夜のうちに四里の道を走りぬけ(!)、高木家に押し入ってお抱えの剣客を含む九名叩き切った上、自刃した、というものです。

 これは普通に考えてただの殺人ですし、決して褒められたものではない、というか犯罪ですが、常朝が注目しているのは「素早さ」です。
 「仇討ちをするなら、すぐにやれ」。
 その理由として、待っている間に仇が病死したらどうするのだ、ということが書かれているわけですが、同時にこういう素早い仇討ちなら、変に妄想が膨らんでわけのわからない相手にとばっちりが行くことも少ないように思います。
 いや、素早かろうが遅かろうが仇討ちは仇討ちで、現代的に考えれば単なる犯罪ですし、カッとなった勢いで刺してしまうより、冷静になって現実的対応をする方が良いに決まっています。
 ただ、時には人はいつまで経っても冷静になれず、それどころか憎悪が捻じ曲がって、全アメリカ人とか全ムスリムとか、よくわからない抽象的対象に向かってしまうことがあります。というより、憎悪をキープし拡大するためにこそ、対象が抽象物へとすりかえられたのではないでしょうか。
 仇討ちをお勧めするわけではありませんが、もしやるなら当事者だけですぐにその場でやる方が良いです。
 そしてそれができなかった場合、つまりほとんどの場合は、もう仇討ちのことは忘れなさい。
 「そんな簡単に忘れられるか」と言われそうですが、たぶん、わたしたちは自分で思っているよりずっと忘れやすいです。どんなに正当な怒りでも、時が経てば薄れてしまいます。
 十年経ってわたしたちが「覚えている」つもりの恨みは、たぶん、もう別の何かへと変わってしまっているのです。それは最初の義憤でも怨みでもなく、何か外からやってきた、底知れない黒い力が憑依したものに過ぎません。

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