『ほんとうの環境問題』養老孟司 池田清彦

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4104231045ほんとうの環境問題
池田 清彦
新潮社 2008-03

 このところの「エコ」は本当に胡散臭く、個人的には「エコ」とついているだけで警戒モードが入ってしまうのですが、それは環境問題が道徳問題に摩り替えられてしまったからでしょう。「エコにあらざれば人にあらず」です。これでは「エイズは天罰」というのと変わりありません。
 環境問題には、常に何か、本当の問題を隠すキャンペーンのような匂いがするのですが、その点については後述するとして、本書『ほんとうの環境問題』の中で印象的だったところをピックアップしてみます。

ペットボトルのリサイクルにはムダが多い。(・・・)ペットボトルは、わざわざ金とエネルギーをかけてリサイクルして再生製品化しても、ボトルが白濁してしまって、品質が悪くなる。(・・・)ペットボトルの場合、ほんとうにエコロジカルな利用法を考えるならば、リサイクルゴミとしてすぐにすてることはせずに、それを自分用の水の容器か何かにして何度も繰り返し使って、それから捨てたほうが、よほど環境にはやさしい(…)「リサイクルできますよ」と言われるから、人はむしろそれが良いことだと考えてペットボトルをどんどんと捨てている。(・・・)ペットボトルは、むしろ、燃やしてしまったほうが良いのである。とくに、ペットボトルは、生ゴミと一緒に燃やした方がかえって効率が良いのだ。生ゴミは熱量が低いから燃えにくい。そのため重油をかけて燃やしているのが現状である。しかし、生ゴミにペットボトルを生ごみの中に一緒に混ぜて燃やせば、わざわざ重油を使わなくともたやすく生ゴミを燃やせるのである。

 わたしが「エコはもうダメだ」と感じたのは、たぶん武田邦彦氏による2000年の『リサイクル幻想』を読んだあたりからだったと思うのですが、このペットボトル問題は武田氏もさんざん指摘しています。武田邦彦氏については色々な批判があるようですが、一聴の価値のある議論を展開されていて、特に『リサイクル幻想』はお勧めです。
 極端な話、ペットボトルなんて最初から作らなければ一番良いわけで、実際少し前までなかったのですから、なしでそんなに困るというほどのものではありません。ペットボトルのリサイクルというのは、「なしでも困らない」ものを売る逃げ口上、心理的な免罪符に過ぎないように見えます。ただし、一番重要なのは、「なしでも困らない」ものを作って売らざるを得ない仕組み自体でしょう。一人ペットボトルと飲料メーカーを責めても仕方ないです。
 本書でも武田氏の著書でも指摘されていますが、アルミ缶というのは「リサイクルしがい」があるもので、別段容器のリサイクル全般が無駄(無意味というだけでなく、より一層資源を浪費している)なわけではありません。空き缶をゴミ捨て場から集めて業者に売っているホームレスの方がいますが、「盗んで」でも集めるということは、ちゃんとビジネスになるからです。空き缶や粗大ゴミの電気製品を拾ってくると「占有離脱物横領」だか何だかの罪に問われてしまう、という変なことになっているのですが、行政は「捨てるしかないもの」に専念し、それ以外(再生ビジネスが成り立つもの)は民間に任せてしまった方がうまく回るのではないでしょうか。市場にすべてを任せる、というのは危険な発想ですが、「やればやるほどお金のかかるリサイクル」は、必ず「余計に無駄遣い」とは言わないまでも、一度立ち止まって「泥沼に嵌っているんじゃないか」と再考すべきです。

バイオ燃料というのはいま石油を使ってつくられているからだ。石油を使って穀物をつくり、さらにそれを石油の等価物に変えているわけである。それならば、最初から石油を燃料として使った方がエネルギー効率が良いのは明らかである。

 バイオ燃料の問題は食料問題であって、背景にあるのは穀物による支配というアメリカの政治的思惑にすぎません。

日本では年間に野良犬や廃犬を三十万頭も処分している。あれにしても、ただ殺すだけではなくて、どうせのことならば食ってしまえばいいのではないかと思う。日本人が自分たちで食わないのなら、犬を食う食習慣のある国に加工して売ればよい。

 これは凄い指摘です。個人的には犬を食べる気にはなれないですが(肉は一切食べないので)、確かにまぁ、食べてしまえば「合理的」ではあります。尤も、それを言い始めると人間の遺体だって食べようと思えば食べられるわけですから、あまり闇雲に「何でも食料に」というのはどうかと思いますが・・。
 ちなみに、反肉食というのは「環境戦略」としてなかなか結構なことだと思います(わたしが肉を食べないのは別に環境や健康のためではない)。武田氏が指摘しているように、おそらく本当に危険なのは「食料問題」であって、それを乗り切るためにも、まずは無駄だらけの肉を切る、というのは簡単でかつ合理的です。日本人の場合、元々肉食が非常に少なかったはずですから、移行も比較的容易なのではないかと思います。

 「少子化対策にお金を出すのは錯誤」という論点も提示されています。

出生率を下げるには(…)人間一人ひとりのパーソナルな価値を高めると良いのである。(・・・)なるべく金がかからなくてエネルギーがかからないようなパーソナルなツールの技術を、人口増加傾向のある途上国に援助したら、それは人口抑制になるのではないか。それにいちばんいいのは、やはり、携帯電話かもしれない。

 エマニュエル・トッドが識字率と出生率の関係を指摘していますが、「パーソナルな価値を高めることで出生率を下げる」というのは、有効な指針に見えます。携帯電話が「利く」かどうかはわかりませんが・・。
 子供の頃に、指数関数的カーブを描く人口数のグラフを見せられ「このままでは地球がパンクする」みたいなことを言われた記憶があるのですが、いつの間にか、人口が減る方がむしろよろしくない、という風潮になってしまいました。もちろん、急激な少子化には問題もありますが、絶対数という意味では、明らかに人類は増えすぎています。絶対数を減らすだけで、非常に多くの問題が解消するはずです。
 本書中では、「中学生以下の子供のいる家庭に補助金を出す」という民主党の政策が批判され、「お金持ちは影響されないだろうが、貧しい人は『お金のために』子供を作るかもしれない。その補助金は中学卒業で打ち切られるわけで、結局貧民を量産するだけだ」と論じられています。

 そして、一番いかがわしい「地球温暖化問題」。

地球温暖化の影響によって今後、海面が三十五センチ上昇するというけれども、もともと日本では冬と夏とで、海水面の高さの差は四〇センチもあるのだ。(・・・)あるいはそもそも、一般に、満潮時と干潮時では水位の差は二メートルほどにもなる。それに比べれば、これから一〇〇年の間に海面が三五センチ上昇するということは、どれほど問題なのか。東京の下町には地下水のくみ上げが原因で一〇〇年の間に四メートルも地盤沈下した所があるが、相対的にはそのほうがよほど大きな問題であろう。

アメリカは、守ることに意味がないと考えたのか、守れないと思ったのか、京都議定書から降りてしまった。二〇〇七年になり、カナダも降りてしまった。そんななかで、日本はババを引いているのである。(…)日本は、世界の顔色を見て、ただ「良い子」になろうとしているだけなのだ。それなのに、勘違いして「日本はこんなに環境に良いことを推進している。世界も見習え」というようなことを誇らしげに言う人がいるけれども、世界の国々はそんなものはメリットがない限り見習わないのである。

自分さえやることをやってしまえばいい、という独善的な態度が日本人にはあって、それがある種の予定調和と結びついてしまう。自分がちゃんとしていれば世の中もちゃんとするようになる。ならなかったら、それは自分のせいではない、という態度になってしまう。「国際貢献」の問題にも環境問題にも、そんな姿勢が表れている。

 地球が温暖化しているのだとしても、それが人間のせいなのか、どの程度人間活動に原因があるのか、をハッキリさせるのは大変難しいでしょうし、仮に人間活動の影響が大だとして、防ごうとして防げるのか、防いだ方が本当に得なのか、これまた簡単ではないでしょう1。大体「この調子で活動すると100年後には」などというフレーズをよく見かけますが、100年後も同じように活動できないから大変だ、という話ではないのですか? 「この調子」で活動していけば、100年も経たずに活動の方が破綻するでしょうし、「地球のため」には万々歳ではないですか。

 本書では、数字を見ないで道徳でものを考える「文科の人間」が再三批判されています。まったく尤もなのですが、一方で、政治指導者たちが本当に「数字を見ない」せいでこの事態に陥っているのか、という疑問もあります。
 「数字を見」られたとしても、将来を予測することは簡単ではないでしょうが、明らかに「余計に資源を浪費するだけ」の「エコ活動」であっても、それを承知で推進している面があるでしょう。根底にあるのは、そういう無意味なことをしないと回らない経済のシステムのように感じます。
 資源や食料といった「本当の危機」に自覚的な指導者こそ、「環境を破壊」してでも、政治的・経済的に優位に立とうとするかもしれません。なぜなら、多少資源が無駄に使われ、環境が破壊されたとしても、お金と政治力があれば、残った資源や食料を買ったり奪ったりできるからです。
 結局、誰にとっても、問題は「資源がなくなる」「食料がなくなる」といったことというよりはむしろ、「自分のところに資源・食料がなくなる」ことです。全体として減っても、自分のところにさえあれば生き延びられるのですから、全体の合計より、配分の比率に目が行くのは当然です。そして、人間同士の奪い合いで優位に立つのは、別に「エコ」な人ではありません。
 やはり根底にあるのは「お金」の問題であるように思えて仕方ありません。

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  1. 武田氏は食料問題に絡み、「温暖化こそ希望」と語っています []