バットマン『ダークナイト』と二つの顔 神経症、倒錯、精神病

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B001AQYQ1Mダークナイト 特別版 [DVD]
クリスチャン・ベール, マイケル・ケイン, ヒース・レジャー, ゲーリー・オールドマン, クリストファー・ノーラン
ワーナー・ホーム・ビデオ 2008-12-10

 もちろんこれは、「顔」の物語だ。
 バットマンは顔を見せない。彼には「本当の顔」があるが、「仮初の顔」こそがバットマンだ。
 ジョーカーは顔を化粧で覆っているが、彼には「本当の顔」がない。彼の顔は、傷によって既に失われている。彼には「仮初の顔」しかない。
 そしてハービー・デント。バットマンと違い、「本当の顔」のまま悪と戦い、「仮初の顔」を持たない男。

 ジョーカーは執拗に、バットマンに正体を明かすよう迫る。彼が失ってしまった「本当の顔」を、バットマンは持っているからだ。
 一方、バットマンはハービー・デントに未来を託し、「仮初の顔」を捨ててもよいと思っている。デントは「本当の顔」のまま戦える英雄だからだ。
 ジョーカーはバットマンを羨望し、バットマンはデントを羨望する。
 バットマンは逡巡し、悩むが、デントには確信がある。物語前半のバットマンは、あたかも使徒に従う信徒のようだ。

 だが、結局はデントも「二つの顔」を持つようになる。重度の火傷を負い、顔の左半部で皮膚が剥げ落ち「内部」の露出したデント。「本当の顔」一つしかないように見えていた彼の、「本当の内部」が剥き出しになる。それは光り輝く指導者の「顔」ではなく、グロテスクな肉塊である。

 すると、「ダークナイト」の三人は、すべて「二つの顔」を持つことになる。
 バットマンは、ブルース・ウェインとバットマンという「二つの顔」。ウェインの顔はマスクにより隠蔽されている。
 ジョーカーは失われた「本当の顔」と、化粧をした今の姿。しかしジョーカーの「本当の顔」は、傷という形で現存しているとも言える。傷とは裂け目であり、そこには何かが「ない」のだが、傷自体によりその「なさ」が示されている。傷の上には化粧の虚飾が上乗せされているが、その化粧はむしろ傷の延長、傷の周りを彩るもののように見える。そしてことあるごとに、ジョーカーは傷の物語を口にする。その物語は毎回異なり、ただ傷が「由来あるもの」であることを示すだけのものだ。たぶん、傷-以前は最初から存在しなかったからこそ、裂け目の周囲に物語が堆積される。
 それはウェインの顔のように「そこに在りながら覆われている」のではなく、テラテラと卑猥に露出している。「本当の顔」は失われたはずなのに、傷こそが「本当の顔」に成り代わり、「これぞ真の姿」と主張しているかのようだ。
 そしてハービー・デントの「二つの顔」。彼の顔は、ジョーカー以上にグロテスクだ。「本当の顔」だったはずのものが、ヌルンと入れ替わって「仮初の顔」になる。その代わり、内臓のような「本当」が裏返って露呈する。

 敢えてナイーヴにラカンの三類型を適応するなら、バットマンは神経症者、ジョーカーは倒錯者、そしてデントは精神病者と言える。
 失われた「本当」は、バットマンにおいては「隠蔽」されている。神経症者にとっての対象aのように。
 一方、ジョーカーにおいては、ないはずの「本当」が「ここにある」と主張されている。倒錯者がコミカルなまでの様式で、症候の周囲を彩るように、傷が化粧により一層強調される。倒錯者が母親のファルスの不在を否認(Verleugnung)するように。ジョーカーがバットマンの素顔に拘るのは、マスクの下に母のファルスが隠されているからだ。
 そしてデントでは、最初は「本当の顔」一つに見えている。その一体振り、「表裏の無さ」はウェインも魅了する。しかしデントにあって、父の名は排除(Verwerfung)されている。排除されたものが、現実界に回帰する。露出する内臓として。

 デントの「確信」はどこから来るのか。
 「迷う男」ウェインは、当初彼の真の義気、漲る自信こそが、確信の源であると考える。実際、精神病者は神経症者にとって、「自分にはない確信」に満ちて見える。
 しかし本当のところ、デントには「自信」があるわけではない。彼の「確信」は物質的に張り付いたものだ。余りにも揺ぎ無い確信は、社会的ディスクールの内部に根を持っていない。ただ単に、答えが突然に置いてあるのだ。
 タイトルを失念したが、「神託を下す機械」のようなものが登場する星新一の小説がある。人々は有難がり、機械のお告げを信じる。しかし実のところ、機械の内部ではコインが投げられ、その裏表が神託として下されていただけだったのだ。
 正にデントは、この機械のようにコインを投げる。コインは「揺らぎない」。精神病者の「確信」とは、このコインのような物質的確証である。なぜ裏なのか、表なのか、わたしたちはそれ以上問うことができない。

 出エジプトを導いてくれるかに見えたデントは破綻をきたし、ウェインは再びバットマンに戻らざるを得ない。
 彼の武器の一つが「ユビキタス」な視覚であることも、示唆的だ。ウェインは力強くすべてを見渡す。ただ、決定できない。すべてが均等に見えるが故に、一つを選ぶことができない。彼にはデントのようなめくるめく「確信」がない。ウェインには狂気が欠けている。
 しかしこの「問いの終わりのなさ」、真の姿と仮の姿を行き来し決定できない様相は、2という数字ですべてが構築された物語の中で、逆説的にも希望と言える。デントがその破綻により示したのは、決定の狂気、独我論的な内と外の入れ替わり、その恐ろしさなのだ。バットマンは英雄の「無さ」自体とも言える。

 この物語で、観客が唯一救われるのは、「相手を殺せば自分は救われる」二者択一におかれた二隻のフェリーの乗客たちが、どちらも最終的に「殺害」を放棄する場面ではないだろうか。とりわけ、囚人たちの一人が起爆装置を捨てるシーンには、映画全体のトーンに不調和をもたらしかねないまでの、崇高さがある。
 男は言う。「十分前にすべきだったことをやってやる」。彼の選択は、起爆装置を窓から放り投げることだ。つまり、選択肢自体を捨てることだ。
 これは選択の放棄であると同時に、放棄という選択でもある。
 囚人は「選べた」し、選べたという事実を「知って」いる。決して「選べなかった」とは言わない。「仕方がなかった」とも言わない。
 選ぶことはできたのに、選ぶこと自体を捨てる。
 <父の名>を巡る二者択一から、三方向に散った英雄たちの中で、この囚人だけが、一者であり続けているように見える。静かに、選ぶことを選ばなかったことを引き受けながら。