『外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か』白井恭弘 「言いたいこと」より「言いたい人」、メッセージより愛

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4004311500外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か (岩波新書)
白井 恭弘
岩波書店 2008-09-19

 教科書ではない語学本で、久しぶりに素晴らしく面白い一冊に出会えました。白井恭弘さんの『外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か』です。
 世間には「こうすれば英語ができる!」「聞き流すだけでOK!」みたいな如何わしい教材やらメソッドが溢れていますが、この本はそうした「語学学習のコツ」を伝授するものではありません。具体的なメソッドとして最終的に「比較的お薦め」されている方法は、別段目新しいものでも何でもありません。方法そのものではなく、第二言語習得論という実証研究が、どのような歴史を辿り、今どこまでわかっているのか、いかなる理論的相克があるのか、そうした様相が平易でとても美しい文章により綴られているのです。
 語学学習が地道なもので、ちょっとしたコツで楽して身につけられるような性質のものではないことは、真面目に言語習得に取り組んだことのある人なら、誰でも知っています。小細工を喧伝する本に用はないし、そんな時間に「非合理的」なやり方で単語の一つでも覚えた方がずっとマシです。それでも、毎日勉強していると、ちょっとした気づきでパッと視界が開けることがありますし、試行錯誤の中で自分専用のコツみたいなものを身に付けもします。この『外国語学習の科学』で取り上げられている実証研究は、そうした経験と素晴らしく符号し、かつ丁寧で美しい言葉でそれが語られているのです。

 と言いつつ、学習の大原則のようなものを敢えて取り出すとすれば、

1 メッセージが理解可能な、大量のインプット
2 アウトプットの必要性、アウトプットしたいという気持ち

 ということになります。
 ものすごく当たり前のようですが、アウトプットよりインプットがずっと重要であること、そしてアウトプットは文字通りに出力されなくても構わない、というところに、激しく首肯してしまいます。重要なのは「リハーサル」で、「本番」はなくても構わないのです。だから、「リハーサル」したくなる、話しかけたい相手がいる、ということがとても重要です。
 このことを考える上で、幼児の言語習得における「沈黙期」という概念が、非常に面白かったです。

幼児の母語習得について、なかなか話し始めなかったのに、話しはじめたら完全な正しい文を話したので驚いた、という子どものケースが多数報告されています。
(…)
筆者が直接聞いたケースでも二つあります。(…)ある日本人の友人の姪は、なかなか話し始めなかったのですが、初めて言った言葉が、「おかあさん、夕陽がきれいだねえ」だったというのです。
(…)
じつはアインシュタインもそのような子どもだったそうで、このような子どもたちについて書かれた本も出ているくらいです。

 とにかくインプットが何よりも重要であることが強調され、リスニング能力が「話す、読む、書く」技能に転移する、という例も取り上げられます。ただし、まったく何を言っているかわからないものより、大体理解できる程度のものを繰り返し聴くことが重要です。また、やはり純粋にインプットだけでもダメなのです。

沈黙期を経て、完全な文でで話し始める子どもたちの例からは、実際に話すこと、すなわちアウトプットそのものは言語習得の必要条件ではない、という原理を導き出すことができます。しかし、その一方で、インプットだけでも言語習得はできないことは、テレビを見て育った子どもの例や、受容的バイリンガルの存在からわかります。
では、突然話しはじめるまでに、子どもには、いったい何が起きているのでしょうか。おそらく、意識的にせよ、無意識的にせよ、頭の中で話し、「リハーサル」を行っているのでしょう。

 ここから、

「インプット」+「アウトプットの必要性」

 という、誰でも思いつく結論が導き出されるのですが、エキサイティングなのは、

アウトプットそのものはしなうても(実際に話さなくとも)、インプットとアウトプットの必要性さえあれば、頭の中でリハーサルをすることによって、話せるようになる

 ということです。
 個人的な経験とも、素晴らしく対応します。一人でも良いから、「どうしても話したい相手」がいて、彼または彼女に「これをどう説明しよう」と頭の中で何度も繰り返す。時に無意識に考えている。語学が進歩するのは、そういう時です。
 「話したい相手」が恋人だったりしたら最高です。語学教師の最大の要件は「生徒を惚れさせる」ことかもしれません。あながち冗談ではありません。文字通りイロコイを一々していたら流石に身が持たないでしょうが、「この先生にこの話をしたい!」と思わせられれば、すでにミッションの半分くらいは果たしたことになるのでは、と本気で思います。
 子供は誰だって、お母さんやお父さんに話を聞いて欲しくて、言葉を発し始めるのです。誰も話したい人がいないなら、言葉なんかできなくて当たり前です。「世界中の人」なんて、大ざっぱで抽象的なものではダメです。そんな大風呂敷は結構なので、たった一人でいいから、いやむしろ一人や二人といった顔の見える関係の中で「この人にこの話を!」という気持ちが盛り上がらなければ、いつまで経っても口をついて言葉なんて出てきません。

 「言いたいこと」という点については、しばしば話題にされます。「メッセージがあれば、それが一番大切なんだ」。
 しかし、本当に大切なのは、「言いたいこと」ではなく、「話したい人」です。話したい人には、言いたいことがなくても話をします。言いたいことがあっても、話したい人がいなければ、黙ったままです。そもそも、わたしたちは母語で話すとき、「言いたいこと」があるから話しているのでしょうか。大概は他愛のないお喋りで、内容らしい内容もないでしょう。ただその人とお喋りして、時をすごしたいから話しているのです。
 「言いたいこと」があれば尚結構で、教養ある大人としてのspeech力を身につけるには大切なことだと思いますが、それは大分高級なステップでしょう。「言いたいこと」より「言いたい人」、メッセージより愛です。いや、こんな極端なことは白井さんは仰っていませんし、むしろメッセージ伝達の重要性を語っていらっしゃるのですが・・。

 最後に、この他でちょっと面白かったポイントを羅列しておきます。
 まず、「あまり得意でない第二言語同士が連合してしまう」現象。

筆者が香港で広東語の勉強をしはじめた時の話です。広東語で「はい」と言いたかったのに、何と言えばいいか分からず、とっさに出てきた言葉は大がう時代に勉強して以来ほとんど忘れているスペイン語のsi(「はい」)だったのです。

 これとまったく同じ経験を、わたしもしています。アラビア語を学び始めた頃、何という単語だったか覚えていませんが、とっさにアラビア語が出ず、代わりにフランス語で答えていたのです。フランス語は一時期かなり一所懸命勉強し、フランスにも二か月程度なら滞在したことがありますが、まったく使わなくなって久しいですし、今では簡単な文章の読解も覚束ないです。そんなフランス語が「苦手つながり」でとっさに出てきたのです1

 この他にも「バイリンガル、とりわけ言語間の距離の大きい複数言語のバイリンガルは、複数の刺激に対して選択的に注意を向ける認知能力が高い」「お酒を飲んでリラックスすることで、外国語の会話能力が上がる。ただし、空腹時に飲んだり、飲みすぎると駄目」といった、読み物的に気楽に楽しめるエピソードもあり、とにかく楽しめる一冊です。

  1. エジプト人の先生が「君はフランス語もできるのか」と驚いてくれましたが、むしろできないからこそフランス語が出てきたわけです(笑) []