正義は先着順で構成される

 少し前にこういうtweetをしました。

 順番の後先、という非常に原始的なものが、倫理の水準で機能しています。
 身も蓋もないことを言えば、わたしたちは生まれ育った環境に染め上げられますし、わたしの母語が日本語なのは単に両親が日本語話者だったからで、先に知り合った友達とは付き合いが長く深くなり、そうした諸々を無条件に肯定するということは勿論ありませんが、愛憎入り交じる複合的な感情を「先の者」との間に交わすことは間違いありません。そして後から来たものに対する時は、常に先に身につけたもの、身につけたと意識すらできないほどの自分自身となってしまったものを基準にして考えています。考えている、ということにも多くの場合無自覚です。非常に多くの場面でわたしたちは、幼い頃に習得したもの、「これがお前だ」と名付けられたもののアナロジーで物事を見ています。三つ子の魂百までも、とはよく言ったものですが、こうして習得した原型というものが、わたしたちの「正義以前」を形成しています。「わたし」よりももっと前のもの、身も蓋もないものです。
 更にわかりやすく原始的な話をすれば、「ウチが先に見つけたんやもん」です。
 動物だって、先に見つけたものがゲットします。多くの動物はその場で餌をペロリとしてしまうので、既に争う余地すらないのですが、人間やいくらかの動物たちはもう少し知恵が働いてかつ欲深いので、溜め込んで後からゆっくり味わおうとする時があります。するとそこに、「後からやって来た者」が現れます。先に見つけた者は勿論言います。「ウチが先に見つけたんやもん」。しかし後から来た者も、黙って引き下がったりはしません。なぜか? 欲しいからです。それはそうです。自分が鳩か野良猫だと思ってみて下さい。後から来たからといって、欲しいものは欲しいです。「先着順だから仕方がない」などと素直に引き下がったりしません。力があれば、強引に奪い取るかもしれません。なくても諦めがつきません。だから色々と理屈を捏ねるのです。「皆んなで分け合わなアカンって、先生が言うてはったもん」「この前、ウチのおやつ分けたったやんか」。
 おおよそ、先に来た者が右派で、後から来る者が左派です。フランス革命を見るまでもなく、右派左派というのは相対的なものですから、初めに左派だったものが右派になることもあります。
 先に来た者が大人で、後から来た者が子どもです。これも相対的で、子どももいずれ大人になります。伝統的には、大体大人の方が右派的な思想を持つものです(この頃言われる「右傾化」については後述)。
 先に来たのが連合国で、後から来た者は枢軸国です。後から来た者は大体理屈を言います。理屈を言わなければ、何せ先の者はもう持っているし食べているのだから、食い込む余地がありません。力でも敵いません。共産主義でもファシズムでもいいです。何か言わなければ、後から来た者は指をくわえているだけになります。逆に言えば、先に来た者は「特に何も言う必要がない」のです。
 この頃は恐ろしいことに、既得権を持っている側が「既得権」という言葉を、あたかも人権や社会権といった言葉のように振りかざすことがありますが(しかしそれにはそれで事情があることは後述)、本来、先に来た者は権利とか何とか屁理屈を捏ねる必要はないのです。何せ先に来ているのですから、黙って持っているとか食べておけば良いのです。
 先に来た者はある意味絶対の正義ですが、正確に言えば「正義以前」です。分節化未満と言っても良いでしょう。究極の正義は、正義より前にあるのです。これと比して、所謂正義、何らかの筋によって物申す者、義をもって立つ者というのは、後から来ます。後から来ると理屈を言わないといけないからです。ですからこれは、単純に正義と悪の戦いという訳でもなく(そういう面もあります)、正義以前vs「正義」という見方もできるのです。
 後から来た方の正義、所謂正義の方について言えば、これは言わば、鈍器としての正義です。武器としての正義、黙っていれば先に来た者に全部取られてしまうので、それを奪い取るための正義です(嫌いを正義に言い換えるな、と言ったとしても)。「権利」の獲得闘争というものは、すべてこうした「正義の戦い」です。権利などというのはただの言葉で、先に来た者から餌を分捕るための口八丁手八丁に過ぎないのですから、奪い取るために正義を鈍器に使うのです。
 ヒーローは遅れてやって来る、と言いますが、遅れて来るからヒーロー、あるいは遅れてきた者たちのヒーローです(尤もヒーローものではしばしば、「正義以前」を背負う権力の犬が、大文字の正義を鈍器に振りかざす「遅れてきた革命軍」をやっつけていますが)。

 先に来た者はなぜ先に来たのか。何か理由がある時もあります。非常にクレバーに振る舞って、上手いこと餌をゲットしたのかもしれません。体力に優れていたので、先に辿り着けたのかもしれません。
 しかし多くの場合、先に来た者は単に運が良かったからです(足が速かったのだって、生まれつきかもしれない!)。たまたま、先に通りがかったのです。しかしこの「たまたま」というのは非常に強力で、理屈がないだけに論駁も難しいものです。実際、大自然はそんな風にして動いているのです。先祖代々の土地と言っても、たまたまご先祖様がそこに畑を作って受け継いできただけの話です。たまたま、そこに来て、たまたま、そこで生き延びたのです。こういうものは、非常に強い。彼らが理屈を使うのは、後から誰かが来た時です。後から来たものが分け前を寄越せとぎゃあぎゃあ喚くので、仕方なくカウンターで何かを返すのです。そうでなければ、何も言わずに餌を食べたり先祖代々の田んぼで黙々と稲とか作ってればいいのです。
 言うまでもなく、これらの状況はリソースが限定されている場合です。個体数に対して十二分なリソース、食べ物とか縄張りとか異性とか、そういったものがある場合には、特に争う必要はありません。しかし多くの場面で、わたしたちのリソースは限定的であり、更に人間の場合、数字だけなら無限の「所有」が可能ですから、物理的リソースがいくらあっても争いは起こり得ますし、実際、起こり続けています。貨幣経済、そして資本主義が所有をデジタル化したのですが、より根源的には、象徴的な次元の獲得に端緒があるのでしょう。貸し借り関係は貨幣に先立つ、といった研究がありますが、貸し借りとは象徴的次元で行われる「約束事」ですから、こうした物質的現実を越えるものをわたしたちが身につけた時点で、「所有」の無限化は始まっているのかもしれません。もうこの段階で、わたしたちは「リソース」を巡って争うようにできているのです。
 先に来た者は先に来ているだけで既にパワーを持っていますから、圧倒的な戦力差があるなら、力でねじ伏せるのが一番早道です。後から来た者がいかに屁理屈を捏ねようが、理屈を返す必要すらありません。実際、そういう場面というのもまま見られます。
 もっと良いのは、とにかく黙って速攻食べてしまうことです。まだ餌が残っている宙ぶらりんな状態だから争いになるのであって、先に来てパクッと丸呑みにしてしまえば、後から来た者もどうにもなりません。しばらく地団駄を踏んだりはするでしょうが、いくら踏んでももう餌にありつく可能性はゼロなのですから、争いは早々に収拾します。地域紛争などについて、マクロに見ると実は「介入しないで虐殺に任せる」のが一番事態が早く収拾する、という研究があるようですが、(倫理的な是非はともかく)確かに大いにあり得る話でしょう。また、高野秀行氏が奇妙な和平状態にあるソマリランドを取材した際、「ソマリランドには資源がない、だから争いが早く収められた」といった旨の言葉を聞いていますが、これも尤もな話です(『謎の独立国家ソマリランド』高野秀行、氏族社会、アル・シャバーブ)。取るものがないのにただただ殴り合うほど人々は暇でも元気でもありません。
 多くの場面で、先にペロリと食べてしまうより多くのものがあり(無限の数字=所有!)、尚且つ戦力差は圧倒的という程ではありません。そこで後から来た方が理屈を言い、先に来た方も理屈に応えざるを得なくなります。また先に述べた通り、「右派左派は相対的なもの」なので、先に来ている方も絶対の先着者という訳ではなく、ある時期には後から来て理屈を捏ねていたことがままあります。ある意味、今現在生きているわたしたちは、多かれ少なかれ後から来ているのです。その為、先着者の方にも負い目があって、先に来ているのに後から来た方の理屈に付き合わざるを得ないところがあります。
 ついでに言えば、この「先着者の負い目」は人類学的、精神分析的に非常に重要なポイントです。「まったく負い目のない者」は論理的・神話的に遡及的に想定されるだけで、象徴的な次元には実在しません。父殺しがあったのです。いかなる先行者も等しく負債を負う、去勢されることによって、社会化され「人間」になります。この社会が無化され「動物化」しつつある現況というのがありますが、本当のところ、いかに先に来たからといって、わたしたちがわたしたちである限りにおいて、誰も無限の先行者利益(既得権!)など持っていません。

 少し余談なのですが、人は基本的に戦いたくないものです。
 「何を言っている、地上には戦火の絶えることがなく、人々は常に争っているではないか」と言われるかもしれません。確かに争いがなくなることはないでしょう。しかし「争いの種」の割には、実際の争いにはなっていません。「ブッ殺す!」と思った人の99%は実際にはブッ殺しません。なぜなら、面倒臭いからです。
 圧倒的な戦力差、というのは正にここで効いてくるもので、何のダメージも負わずに一撃で相手を屠れて後腐れなし、というなら、もっとばんばんブッ殺しているでしょう。しかし多くの場合、ブッ殺せるにしてもブッ殺した方も無傷とはいかず、近代以前ならちょっとの傷が致命傷になりかねなかったですし、骨折すら綺麗に治すことは難しかったでしょう。ぶん殴って倒したは良いものの、拳を歯で切ってしかも相手が肝炎キャリアでした、となれば、どっちが得したのかわかりません。
 世の中の多くの場面で実際に見られるのは「やったんぞコラァッ」「やってみいやオラァッ かかって来いやッ」です。田舎のヤンキーが顔を突き合わせてやるアレです。そんなに言うならさっさとやったら良いのですが、案外やらないものです。やればどうなるのか、どちらも(意外と)馬鹿ではないのでわかっているのです。
 なぜか? そもそも彼らの目的は、別にブッ殺すことではないからです。餌とかお金とか縄張りとか異性とか面子とか、そういうものが欲しいのであって、相手の死体なんか貰っても一文にもなりません。おまけに周りからヤバイ奴だと思われてハブられるかもしれません。できれば「やったんぞコラァッ」で打ちのめして引き下がって頂きたいのです。
 古典たる聖典を読んでいると、勇ましいことを言っていた者たちがいざとなると言い訳をして逃げる、なんと情けないことか、勇気を出して立ち向かえ、みたいな下りが見られますが、要は皆んな、できれば戦いたくないのです。怪我をしたら嫌だし、お腹も空きます。実際に戦うのは結構大変なことです。神様にでも一言言ってもわなければ、とても畑を放って駆けつけることなどできません。
 更に話がズレますが、東アジア武術の多くの流派には型とか套路といった稽古法が伝えられています。これについては色々な意見があって、空手で言えば昭和の時代には「型なんてダンスだ」みたいな批判があり、フルコン空手などが一世を風靡したのですが、最近はその反動か、「いや、型には身体操作を学ぶ重要な教えがある」といった論が力を持って、沖縄拳法などが人気を博しています。実際の武術的意味というのは一旦脇におきますが(個人的には勿論意義があると思っています)、そもそもの話、百歩譲って「型なんてダンス」だったとして、それは無意味なのでしょうか。ダンス対ダンスで戦う人たちもいるのです。ラップで戦う人だっています。
 何が言いたいかと言えば、武術の世界というのは面子の世界ですから、誰しも「我が流派が最強」と言います。それなら戦って決着をつければ良さそうですし、実際そういう場面もある訳ですが、勇ましいことを言ったところでできれば皆んなやりたくないのです。実際のバトルというのは極力避けたいのです。繰り返しますが、近代医学以前の世界ではちょっとの怪我が命取りにもなりますし、死なないにしても武術家としては使い物にならなくなる可能性はあります。素手でもそんな調子ですから、真剣なんかで切り合ったら確実にどちらかは死にますし、両方死ぬ可能性も大です。
 そこで型を演じてみたり、自然石を割ったり、そういうパフォーマンスの出番があるのです。そこで凄い実力を見せればビビらせられるかもしれませんし、何より、相手方にとっても「引き下がるきっかけ」というのが得られます。「参りました、これは到底かないません」と(少しは)言いやすくなるのです。これは面子社会では非常に重要な外交技術で、たとえ自分に利があり義があったとしても、徹底的に相手を打ちのめしてしまってはいけませんし、引き下がる口実というのを与えないといけません。これができないとかえって自らの地位が脅かされます。
 更に余談を加えるなら、こうした政治技術は一般にオス社会で発達していて、メスは通じていない場合があります。それで伝統的オス社会たる企業社会などで実力のあるメスが上に立った時、筋や利、義を余りに無双で振りかざしてしまって、結果的に自陣に災いを招いてしまう、という場面が見られます。たとえ強くて正しくても、勝てば良いというものではありません。徹底的にやってはいけません。何事にも「その後」というのがあって、勝っても負けても人生は結構続きますから、全体の塩梅というものを考えて面子に配慮しないといけません。
 大分話がズレましたが、型がたとえ「ダンス」だとしてもそれはそれで立派な役割があり、「やったんぞコラァッ」「やってみいやオラァッ」でほのぼの仲良くプロレスしながら世の中結構回っているものです。温かい目で見守らないといけません。

 この頃のアクチュアルな問題として、伝統的に「子どもは左派」だったものが、右派的な子どもが増えている、むしろその方が「若者らしい」という状況があります。
 これにも色々な背景があるでしょうが、一つには、昭和の時代に人口スケール的な動態期があって、その当時の左派やカウンターカルチャー的なものが、実は一旦勝利してしまった、ということがあるでしょう。これは絓秀実氏や外山恒一氏などが指摘していることですが、68年の戦いというのは、即時的な革命などは達成していませんが、長い目で見た時に当時の若者カルチャー、伝統的ムラ社会や共同体的な縛りに対するカウンターというものは、そこそこ上手くやってしまったのです。軍事的には敗北したかもしれませんが、文化的には戦利品を手にしました(絓秀実氏が指摘されていますが、全学連と全共闘ではファッション的に明白な差異があり、全共闘的なものは現代と地続きになっています)。団塊世代は長期的にはちゃんと勝利して、社会は自由で良いものになって、ジェンダーフリーバリアフリーな都会的風土がそれなりには進められたのです。
 その結果として、現在進行しているのは「右傾化」ではなく「左傾化」であり、世界のスターリニズム化、フラット化です(良い抵抗と悪い抵抗などというものはない)。世の中はどんどん見通しがよくお上品になり、加えてインターネットのお陰で瞬時に欲しい「情報」が手に入り、道路にも凸凹がなくなっているのです。
 世の中は大変良くなりましたから、かつては先に来た者が頭ごなしに変な因習を押し付けていたのが、今は先に来ていても割と物分りがよく話の聞いてくれる大人になっています。この大人もかつてはカウンターカルチャーの子どもだったのですから、理解の良い大人なのです。
 権力というのはこういう方法を取ります。変に力でねじ伏せようとするより、「こっちの懐に入ってレールに乗っておけばそこそこ安全ですよ、無双はできないけど最低賃金くらい払いますよ」とやってくるのです。この太陽政策的なスターリニズム化が高度に進んだ結果、後から来た者たる若者も、変に理屈を振りかざして大文字の正義などに走るより、早々に軍門に下っておく方が得、と自己利益最大化行動を取っているのです。
 また、フラット化した世界では何でも見通しが良くなりますから、かつてであればお山の大将から出発して都会に出てきて打ちのめされる、という手順を踏んでいたものが、最初の段階で「ああ、自分は小者だ」というのがすぐにわかってしまいます。音楽だって、昔は周りで流行っているものをきっかけにレコードを掘っていったのが、今はすぐに「ジャンルを代表する作品」などを見通して、新書本的にお手軽にマスターできてしまいます。最初から「世界が相手」なのです。若い人は、かつてのように学校一の洋楽好きとか町のダンス名人を経ないで、すぐに自分の「世界的偏差値」を割り出し、そこに最適化しようとします。良くも悪くも小さくまとまって、小者は小者なりの幸せを探した方が得な世の中なのです。
 それにも納得できない子ども=後から来た者にとって、先に来た者=権力が振りかざしているのは、共同体的な因習などではなくディストピア的な息苦しさです。その結果、カウンターとしてぶつけるにはむしろ反動的な精神性、トランプ的な野蛮さの方が有効になってしまっている、という状況があるでしょう。実際、「世の中良くなった」と言っても、得をするのは物分りの良い小さくまとまったお上品な人々だけですから、「無法者」にとってはますますもって生きづらい世の中になっています。同士スターリンの喜ぶ内面化されたボルシェヴィズムをきっちり信じて守っている分には今日の食い扶持くらい与えて貰えますが、少しドロップアウトしたり枠組みに合わないと、フラット化して隠れる場所がなくなった分、以前の有象無象がうようよしていた世界より余程悲惨な末路しか待っていません。
 そういう状況になると、ダメな人はダメな人なりに許してもらえる口実を探すことになります。「病気だから仕方ない」といった言説が好例です(社会と愛の話をしよう)。うつ病だから仕方ない、ADHDだから仕方ない、というのを、完全に社会からはじき出されないための細い命綱にしているのです。世の中の「マイノリティ」はこぞって同士スターリンに認めてもらおうと必死です。システムに認知して貰いさえすれば、うまくすればアファーマティブ的な利得にも預かれる訳ですから、スティグマではない、先天的なものだからわたしたちのせいじゃない、等々と、使える口実は何でも使います。
 しかし本当のところ、そうした「認めて下さい」「受け入れて下さい」というのは、既にスターリニズム的フラット世界の釈迦の掌なのです。これらは本当のカウンターではなく、システムの靴を舐めて仲間に入れて貰って、制度化して頂くための言説に過ぎません。かえってフラット化に寄与するばかりです。
 そういう意味では、(人間的には全く尊敬できませんが)トランプ的な無茶苦茶さの方が、余程フラット化に抗っている一面はあります(勿論悪い面は数え切れないほどある!)。限られた「過激派」だけが、言わば「悪人」だけが、隠れる場所のないディストピアに本当に抵抗しているのです。実際、悪人というのは往々にして社会的弱者であり、しかもシステムに救済されなかった弱者です。そして彼らだけが、フラット化に本当の意味で抗っているのです。
 ついでに言うなら、言葉の意味を勘違いしたのか、「既得権」などいうワードが振りかざされるのも、一つにはスターリニズム的なお上品さに対する抵抗であり、また一つには、早めに軍門に下りたい者らが先に来た者の方に同一化して、倒錯的に叫ばれもするのです。「もう持っているんだから仕方ない」というのは、かつては単に先に来ただけの者が苦し紛れに言う理屈以前の理屈だったのですが、理屈とかロジックとかは既にシステムの側に回収されてしまったので、そういう野蛮がかえってトリッキーな武器になっている面はあるかと思います。

 近代が消滅していく、「動物化」していく、というのはこういう状況でしょう。しかしいかに社会がスターリニズム化したところで、わたしたちは依然、言語の中にいます。言語の水準、象徴的な領域が正しく顧みられなくなっているだけで、「わたし」とは何よりも言語であり、正しく神経症者であり続けています。
 なぜなら、わたしがわたしになったのは、常に遅れてきた時だからです。わたしたちは誰も、一番にこの世界に辿り着いてなどいないのです。圧倒的に出来上がった世界、ほとんどのものを先に着いた者が既に取っている世界に、後から遅れて辿り着くのです。わたしたちは皆、後進資本主義国たる悪の枢軸としてこの世にやって来ているのです。先に述べた通り、そのようにしてわたしたちは「人間」になり、そのようにして「社会」を成り立たせて来たのです。
 わたしたちは何らかの形でシステムに居場所を見つけますし、少なくとも片足は市民社会に置いているのですが(表現の勝手、テロだけがテロじゃねえ)、もう片足をどこに置くか、そこにその人がかかっています。このもう片足の方が消えてなくなってはいませんし、むしろフラット社会で窒息させられかけて、モンスター化して暴れようともしています。「承認欲求」のようなワードがしばしばネット社会で行き交いますが、何かが回収され切らないで蠢き、時に怪物化もしているのです。わたしたちはやはり「わたし」たちですし、自分のことが大好きで、その好きを世界を折り合わせようともがくし、そのもがきが時に「わたし」を越えてシステムより偉大なものと通じ、人々を魅了もするのです。
 本当のところ、システムというのは偶像、神ならぬものが神の如く振る舞っているだけのもので、それがスターリニズム化して肥大した今、システム自体が人々を食い、地上を蹂躙しています。ある種反動的な抵抗ではありませんが、筋の通らないものとしての「わたし」、世界の異物としての「わたし」、折り合いのつかないものとしての近代的自我が、完全なロジックに制圧されようとしている世界に抵抗しているのです。かつて社会は抵抗の対象だったかもしれませんが、今や社会と自我こそが抵抗の拠点なのです。
 かつては後から来た者が理屈を振りかざし、大文字の正義、筋道と口八丁手八丁をもって、「正義以前の正義」たる先に来た者に抗っていました。しかし今や、筋道は既に先に来た者たちに吸収され、正しいものはことごとくフラット化されていっています。もう、屁理屈の正義すら向こう側に渡っているのです。ですから、最後に残る「わたし」というのは、ある種の不条理です。駄々っ子なのです。後から来てガタガタ言っている、その「ガタガタ」だけが残ったどうにも筋の通らないもの、その「悪」がわたしなのです。わたしは悪です。
 良い抵抗と悪い抵抗などというものはないで「抵抗は常に悪いもの」と言っているのはこの意味です。良い抵抗と悪い抵抗があって、良い抵抗をしましょう、などという段階ではないのです。悪いものには筋が通じませんし、駄々っ子ですし、物分りが悪いですし、やることなすことめちゃくちゃです。不格好で無様です。しかしそうしたものが、かろうじて物分りの良すぎる世界に抵抗していますし、人が人に本当に魅了されるのは、駄々っ子さが人知の枠に収まった地平を越えて、先に来た者より更に先よりあった者と響き合う瞬間です。駄々っ子だけが、社会が社会になった瞬間、人間が人間になった瞬間をこの世界に再演するのです。
 わたしは依然、そうしたものに希望を見ています。というより、そこがなければ息を吸ったり吐いたりすることにいかほどの悦びがあるのかわかりません。わたしは古い人間なのかもしれません。そうした意味で、わたしもまた、先に学んだもの、たまたま目を開けて最初に見たものに囚われているのかもしれません。むしろ囚われすぎて、多くの人々のように上手く大人になることに失敗しているだけかもしれません。しかし失敗だけが人生を導きますし、わたし自身にも予想のつかないわたしの振る舞い、そうした所に、わたしはわたし以上のわたしを見ますし、わたしの中のそういう面だけがわたしにとっての愛せるわたしで、そういう「わたしならぬわたし」に「もっとやってやれ」と息も絶え絶えになりながらバトンを渡そうとするのです。
 そんな風に無茶苦茶に蛇行しながら生きている人がわたしは好きですし、もっと言えば、生きている人というのはそういう人だけだと思っています。
 わたしは生きているので、生きている人ともっと遊びたいです。行き過ぎたり戻ったりしながら、落球に継ぐ落球で生きても良いではありませんか。ボールが総べてグラブに収まるなら、もうそんなものは野球ではないし、プレイでもありません。

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