『イスラーム金融―贈与と交換、その共存のシステムを解く』櫻井秀子

4794807805 イスラーム金融―贈与と交換、その共存のシステムを解く
櫻井 秀子
新評論 2008-09

 イスラーム金融が話題になったことで、雨後の筍のような薄っぺらい本が沢山出版されましたが、そうした書籍とは明らかに一線を画する一冊。
 深いイスラーム理解と経済学の学識、両方を兼ね備えなければ為し得ない素晴らしい研究の成果です。著者の櫻井先生はイランに留学されたとのことなので、アラビア語だけでなくペルシャ語にも通じている、という超人的な方なのでしょう。
 いわゆる先進国で暮らし、市場経済にどっぷり浸かって生き、資本主義そのものを否定するわけではない人々の間でも、高度資本主義のもたらした非道なまでの格差、グローバリズムについては、いささかの疑問を抱いている人々は少なくないはずです。しかしそこで、一足飛びに倫理や道徳という領域に行ってしまっては、善意はあっても現実味はなく、実際的な力にはなり得ません。その中で、イスラーム金融は、思想性と実際性を両立させた長い歴史を備える、という意味で、偉大な参照項になるはずです。

 喜捨、贈与といえば営利的な意味が削がれ、経営学の領域ではほとんど関心がむけられていない。経済学においても贈与経済というタームはあっても、アルカイックな時代に特有なものとしての扱いを受けている。しかしイスラーム経済を例として交換と贈与の関係を検討すると、両者のバランスが重要なポイントであることが浮かび上がってくる。そのバランスは持続的な経済システムに不可欠で(…)近代的な市場経済においても、交換と贈与のいずれもが機能しており、市場経済システムは、交換と贈与の相互浸透性によってその社会的合理性を発揮してきた。
 ところが現在は、交換経済のみが広範に拡大する一方で、贈与経済が極度に衰退している。(…)
 だがここで市場や最新テクノロジーにのみ、批判の矛先を向けてもあまり意味がない。交換経済にもとづく市場の発達と合理化は、個人の自立を促し、贈与関係によって縛られていた固定的身分制の解体を可能にし、過度の自己犠牲や他者依存が解消の方向に向かったという側面もある。むしろここで問題なのは、交換一色の市場によって社会が再編成されつつあることだろう。
(…)
 イスラームのシャリーア・コンプライアンスは、交換経済と贈与経済をバランスよく保つことを原則としている。それは交換機能が持つ合理性を利用しつつ、それが資本主義的に市場をせっかんすることを許さない。また同時に、贈与経済による互助的関係を強化しつつ、それがもたらす依存体質も払拭しているのである。

 イスラーム社会においては、人に対して「頭を下げすぎる」ことが良しとされないのは、よく知られています。最敬礼すべきは神のみであり、人に感謝するにせよ、神ならぬ人に対して過剰な価値づけをしてはならないのです。喜捨を受け取る人も卑屈になることはなく、むしろ死後の帳簿をプラスにする手伝いをしてやった、くらいに堂々としています。神という超越的一項が介在することで、贈与の不安が仲裁されているのです。
 こうした「何にでも神が介入する」システムというのは、多くの日本人にとって理解しがたいもので、並みならぬ信仰心がなければ成り立たない、と映るかもしれません。しかし、目に見えないものに当り前のような信を置く、という意味では、お金がすべてを回している資本主義経済も同じことです。金本位制が過去のものとなり、電子決済が当然になった社会では、お金もただの数字です。それを支えるものなど何もないにも関わらず、わたしたちはお金を疑うことはありません。お金が神の如くふるまう社会と、神が神として機能する社会、どちらが「迷妄」の内にあるというのでしょう。

 本書にはペシャワール会の中村哲さんの著書から、興味深いエピソードが引用されています。
 中村氏がパキスタンで、物乞いの男性に施しを与えたところ、その男は当然の顔をして、ありがとうの一言もない。「少し態度が大きすぎるのではないか」と指摘すると、男は「貧者に恵みを与えるのは、神に対して徳を積むことだ」と諭してきます。中村氏が「自分はライ病治療のために日本から来たのであり、この仕事は喜捨ではないか」と問うと、男が同意したので、「この仕事に施しをすれば神が喜ぶ」と手を差し出したところ、物乞いは集めた小銭を躊躇なく中村氏に渡したというのです1

 原罪概念が重要な役割を果たすキリスト教に対し、イスラームではそのような負債の概念がないこともよく知られていますが、これについてもとても興味深い指摘があります。負債を負っているということは、限られた者にしか可能ではないにせよ、それを返済できる可能性が示されている、という点です。
 イスラームにおいては、わたしたちの存在は神からの絶対贈与であり、返済の可能性はありません。神と被造物の間には、絶対的な非対称性が横たわっているのです。返礼不可能な贈与を受けた人間は、神の下僕となるのみであり、ここで同時に負い目感情からも解放されます。わたしたちの社会で贈与が不安定になってしまったのは、贈与と交換の間があいまいとなり、まかり間違って「神ならぬ人間による絶対贈与」が成り立ってしまいそうな不安があるからです。存在という絶対贈与、返済不可能にして返済の必要もない、そのような贈与を認めることで、「安心して神に贈り物をする(貧者への喜捨)」ことが可能になるのです。

 「エンデの遺言、シルビオ・ゲゼル、イサカアワー、イスラーム金融」で、ミヒャエル・エンデの立てた問いと「腐敗する通貨」に触れましたが、これらの問題系は明白にイスラーム金融に連なっています。わたし個人は、経済学についてはまったくの素人で、残念ながら実のある論考をすすめるだけの才覚に恵まれません。多くの才人に、この本を手に取ってもらいたい、と願っています。
 ここでは理念的な部分のみを引用してしまいましたが、本書にはムダーラバ、ムシャーラカ、ムラーバハ等の契約形態について、極めて具体的な記述があります。実際的なビジネスをお考えの方にとっても、一助となる一冊でしょう。

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  1. ダラエ・ヌールへの道からの引用 []
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