バイトの見る世界

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 バイトの見る世界だけが本物だ。
 例えば信仰について、わたしはバイトであって、コンビニのバイトにセブンイレブンの今後の経営展開など尋ねても仕方がないように、大きなざっくりした話など聞かれても知らない。知らないというより、本当のことを言えばどうでもいい。人生についてもバイトである。所詮この世は仮住まい。正社員になどならない。
 信仰も人生も途中で降りる種類のものではないので、ここでバイトと言っているのは一時雇いとかそういう意味ではなく、役職というか、位置のようなことである。バイトが日々見るのは棚だしとか新しいPOSの使い方とか現金チェックとかおでんの温度とか、そういう話であって、本社のバランスシートとか今後のフランチャイズ展開とかそういうことはどうでもいい。外からセブンイレブンにやってくる者は、広報を訪ねたり社長を直撃して大きい話を聞く。大きい話というのは、小さいものが積み上がって大きくなっているように見えるけれど、実のところ小さいものと大きいものは全然別である。小さいものがワラワラいる全体が大きいものなのではない。全体というのは見えないのである。
 全体、これが問題だ。わたしたちは皆、バイト的に超局所的・部分的・具体的に生きている。広報や社長は部分ではなく全体を見ていると思っているが、ただ大きいだけの別の部分を見てるだけである。「全体」と名前だけ書かれた札を持っているようなもので、人は生について、常に部分しか知らない。
 それを集めて全体にしてみよう、という人が現れても、集める先から、集めた全体が部分になっていく。だから誰も全体にはたどり着けない。
 たどり着けないのだけれど、全体について考えることをやめることもできない。全体というのがどこかにあるんじゃないか、誰か知っている人がいるんじゃないか、ということをついつい考えてしまう。そしてこの、ついつい考えてしまう、ということによって、わたしたちの見ているすべてが即ち部分となる。それに、部分という名が与えられる。
 だから、それを部分と知りながら、全体を夢見ているというのが生きるということである。
 時々くるくるぱーな人がいて、部分を全体だと思っているが、それは目が見えていないということで、一般的には社長とか先生と言われる。もちろん、社長や先生の中にも、本当はブルブル震えながら、全体など知りもしないのに渡世の義理でさも知っているように話している人もいて、この人達の方が余程真っ当である。
 全体のフリみたいのを聞きに行って、震えたり震えてなかったりする社長に話を聞くのは、カラ滑りしているだけで何も中身のある話などしていない。大事なのは棚だしである。もう日々、ただただ棚だし、接客、おでんの温度である。そんなものはくだらん、というのは、所詮外からのお客さん目線であって、肝心なところには永遠に手が届かない。
 おでんの温度がわからなければ、信仰について何も実のあることはわからないけれど、お客さんだかインタビュアーだかがやって来ておでんの温度を聞いたところで、さっぱりピンと来ない。そういう人には何も知ることはできない。バイトになるしかない。
 バイトになると全体が見えなくなる。見えないなりに、全体があるのだろうなぁ、と想像はする。するけれど、そこまでで、そういうことは他所様に任せておく。そうやって生きていく。ふわふわしたお客さんやインタビュアーの目線がわからなくなるということは、とても大切だ。
 バイトの見る世界だけが本物で、そこからは全体のことは何もわからない。わからなければいい。



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