長い利用規約と、知らないことに同意しているということ

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 何かのソフトウェアをインストールしたり、サービスを利用したりする時に、長い長い利用規約というのがスクロールできる窓に表示されて、「同意する」をクリックして進む、という場面がよくあります。
 もちろん、あの規約を端から端まで仔細に眺めた上で同意している人というのは、ほとんどいないはずで、読ませている側も、読まれないことを承知の上で、言質を取っているわけです。様々な大人の事情のナレノハテということでしょう。
 最近、餅つきイベントが衛生上の問題で規制されたかなんだかというニュースを聞きました。餅つきでなくても、餅を喉に詰まらせて亡くなる、という事故は毎年あります。そのうち餅も、長い長い注意書き付きで販売されるようになるのかもしれません(もう書いてあるのでしょうか)。こんにゃくゼリー事件というのもありましたね。
 割とベタなお話として、こうしてなんでもかんでも規制され、危ないから禁止にされるのはいかがなものか、という議論があります。これもまた、いつもお話しているフラットで透明な社会ということにつながりますが、一分の不正も見逃さない正しい社会というのは、ロジックを積み重ねて責任の所在を明らかにすることが可能な世界ということで、そうした「辻褄の合い加減」が徹底されればされるほど、トラブルの責任を被せられないように、利用規約も長くなっていくのでしょう。
 そして長く長くなった利用規約は誰も読まないし、書いている人も、誰かが読むとは思っていません。
 なんと馬鹿げたことか!というのが普通の感覚でしょうが、一周回って、この長い規約と「同意する」をクリック、という儀礼的所作というのが、一つの肝になっているように思います。
 どういうことかといえば、わたしたちは、明示的な規約文が表示されない時でも、長い長い利用規約を並べられていて、それを読まないうちにクリックしているのです。言ってしまえば、生まれた時点でスクロールするダイアログが表示されていて、よくわからないままに「同意する」をクリックしています。同意するのは、生まれたての赤ちゃんですから、書いている人も読めるとは思っていません。しかし「読め」と声がします。「読めません」というと、天使ジブリールに殴られます。そこで赤ちゃんはクリックします。「同意する」の方を。
 芥川の河童ではありませんが、人はそういう風にして生まれてくるのです。
 わたしたちは、常に何か、読みきれないものに対して「同意する」を既にクリックしており、クリックしなければ前に進むことができません。そして誰も、その長い利用規約の全容を知らないし、理解もしていません。書いた人すら、誰かに読まれることを期待はしていません。そういう、見えざる長いスクロールダイアログというものがあります。
 そこには何かが書かれています。書かれたものです。
 書かれたものがあり、誰もそれを知らないながらも、規約に違反したとみなされる者は絶えず生み出され、よくわからないまま裁かれます。「知らなかった」では済まされません。彼または彼女が「知らなかった」ということくらい、皆が知っているのです。しかし石は投げられます。そういう風に、人の世の中というのはできています。
 長い規約文、書かれたもの、これを排除しきるということは不可能です。
 できることがあるとすれば、周転円的に増殖していく文字というものを、制限することです。それはどういうことかといえば、逆説的ながら、何かが既に書かれていて、わたしたちが同意してしまっている、ということを飲むことでしょう。なぜなら、サービス利用時の文字通りの利用規約の数々というものは、いまだ「書かれたもの」への同意が得られていない、という前提で表示されているからです。まだ同意してもらっていないから、これから同意してもらいましょう、ということです。
 本当のところ、わたしたちは既に同意しているのですが、一体何に同意したのかはよくわかりません。
 よくわからないのは昔からそうなのですが、現代版の違うところは、「よくわからないものに同意する」ということが受け入れがたいものとして認められ、一からきちんと人間の手で書き起こさなければいけない、と信じられていることです。この後者の方の「信仰」というのは、特殊近代的なお話で、何かを破壊するために後から捏造されたものです。
 地動説をやめて天動説にしてしまったので、周転円が沢山必要になりました。
 そうやって円がやたら積み重ねられている風景というのも、個人的にはちょっとおもしろくて嫌いではないですが、なるべくしてなった結果ということでは、やはりバカバカしくはあります。
 確かなことは、わたしたちが同意した規約について、知っている者など誰もいない、ということです。知らない、という前提で、「知りませんでした」という人に石が投げられるのです。
 ですから、「知っている」という者がいれば、その人はただ声が大きい人間です。そういう人を信じてはいけません。
 わたしたちは知りませんが、同時に、知らないながらも既に同意していて、時がくればその責任を負う、それだけです。
 小さい声で「知らない」と言い、しかし知らないことで何者からも逃れられないということ、それを知り、生きていきます。



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