『クルアーンを読む』中田考 橋爪大三郎

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 ハサン中田考先生と橋爪大三郎先生の対談をまとめた『クルアーンを読む』。

4778314980クルアーンを読む (atプラス叢書13)
中田考 橋爪大三郎
太田出版 2015-12-09

 ハサン先生は最近ものすごい勢いで色々本を出していますし、わたしはこのところあまりイスラーム界隈の本を読んでいないので、ずっと放ったらかしになっていたのですが、読んでみたら非常に面白かったのでメモしておきます。
 今までは「内側からのイスラーム」の最高の入門書はハサン先生の『イスラームのロジック』だと思っていたのですが、『クルアーンを読む』も相当分かりやすいです。やはり対談形式ということで、橋爪先生が色々ツッコミながら引き出して下さっているのが良かったのでしょう。
 非常に楽に読める本なので買って読んでいただければ良いのですが、二点だけ。
 
 正典について。

西方キリスト教世界で正典言語ラテン語が成り立ち、その正典言語のちいが下がってくると、各国語によって正典が読まれるようになります。ルターが翻訳を始めるわけですけれども、そのあと各国語の力が強まって、それによってナショナリズムが勃興してくる。そしてそのナショナリズムが、いま世界を覆っています。
(・・・)
正典を読める人間が力を持つのが、もとはすべての文明圏の在り方だったわけです。それがなくなってしまうことによってナショナリズムが現れてきて、さらに民主主義という、正典を読める人だけが権威を持つのではなくて、誰でも同じであるという考えが出てくる。

近代以前の日本の教育も、子供の時から四書五経を、正典を覚えていくという、すべての文明圏に共通するやり方でした。(・・・)正典というのは、専門の学者が読んだってわからないものですから、子供が読んでわかるわけがない。でもそれをまず覚えるところから学問が始まる。最初はわからなくても、そのうち少しわかるところを取っ掛かりにして、理解が進んでいく。だんだんとわかっていくということは、逆に、いままで自分がわかっていなかったということもわかってくるわけです。
(・・・)
ところが、現代の日本はそうじゃない。わかることを教える。かんたんなことを教える。そうすると、わからないのは自分が悪いのではなくて、説明できない人間が悪いというふうになってくる。(・・・)正典の効用は、自分にはわからないことがあるということを教えてくれることです。わからなくてもいいわけですね。どんなに頑張ってもわからないものってあると、人間というのはそういうものであるということをわからせてくれる。

 これは非常に重要なことを言っていて、世界というのはわからないのが基本で、ところどころ島のようにわかることがある、というものなのですが、わかる方を基本にした環境に洗脳されていると、そっちの方が当たり前だと思ってしまって、わからないものは排除するか不可視化するか、という法しかなくなっていきます。これがベタに「不寛容」だからイカンというより、単純に非常に疲れるのです。
 わたし自身、そういう「わかる」の方の教育で育ったわけで、「わからない」に対する耐性が非常に弱い。わからないことを無理にわかる必要はなくて、単に諦めれば良いのですが、諦めの悪い人間に出来上がってしまっているのです。世の中色々仕方がないので、八割諦めて生きていって結構なのですが、そういうことがなかなか悟れないのです。とりわけ、「わかる」教育が文字通り結構わかってしまったタイプの子、比較的賢く育ってしまった人間というのは質が悪い。大人になってから「わからない」に出会って右往左往したり憤慨したり、自分も苦しければ他人にも迷惑で、ロクなものではありません。
 もちろん、「わかるはず」という執念、頑張りによって世の中少しずつ良くなるものですから、悪いところばかりでもないのですが、そんなものはあくまで例外、一部の格別賢い子だけが半ば趣味のようにして突き詰めるものです。戦後民主主義的に「誰もが等しくわかる」などという体でやられても、カタワ者が生み出される害が大きすぎます。ただ一方で、この「誰もが等しく」という体もまた色々なもののすり合わせの結果出てきた約束事という一面があり、闇雲に放り出せばそれが正解というわけでもなく、悩まされるところではあるのですが。
 ともあれ、異質なものに対する敬意というのは、世にいわゆるように「異文化を大切にしましょう」みたいな話では全然なくて、単に「わからない」ものがあって、それについては諦めましょう、ということなのです。いや、諦めないで頑張っても良いのですが、その辺はプラスアルファのオプションのようなものなので、まずわからないものがあって、それを全部一旦呑みましょう、ということです。敬意と諦めというのは似ています。
 個人的に割と馴染みのあるところでは、武術の「教育法」というのは今でもそういうところがあって、口で言うにしても「言葉にならないことを言葉にする」という矛盾仕切ったことをやっているわけで、基本的に伝わりもしなければわかりもしないものです。仮に何かができたとしても、なぜできたのかはわからない。さしあたり自分の目の前にあって克服しなければいけない課題というのはあるのですが、それ自体はまた言葉にならないので、どこまでもどこまでも孤独です。そういうのが大前提で、十年一日の如く何になるものでもない行を繰り返しているわけです。
 当たり前ですが、こういう考えというのは今時まったく流行りません。世の中が「わかる」を前提にした方に変わってきてしまった、ということにも多分それなりな理合というのがあって、やっぱり人間「わかる」方が嬉しいですし、個人というものが切り離されて人生六十年とか八十年というだけのことなら、わかって楽しく生きた方が得です。そうやって孤独に「わかる」世界を六十年くらい生きて死ぬのでしょう。もう今はそういう世の中です。ですから、こういう文脈で「わからない」ことの重要性などゴチャゴチャ語ったところでそれも無駄だろう、というところもまた、個人的には諦めて生きています。

 法人について。

日本の民法では、法人は法的効力を持って好意をすることができるし、所有権を行使することができる、民法的行為の主体なのですよ。しかし、刑法では、すべてが個人的主体であり、責任を追求されるのは個人だけなのです。ここに大きな齟齬がある。
例えば組織暴力団とか、オウム真理教とかのような場合。オウム真理教という集団があってグルがいて、組織として不法行為を働いているわけですけれども、刑法犯として追求する場合には、個々人の実行行為というふうに個別ばらばらになって、林、井上、誰それ、お前は何月何日に何をやったろうと、そういう話なのです。
(・・・)
法人は死なない。自然人は死にます。死ぬと所有権は移転します。遺産相続が起こる。相続が起きると相続税というのを取るわけです。人間はだいたい三十年おきに死んでいくので、けっこう相続税を取れるんです。個人財産はやせ細っていく。
ところが法人が不動産をもっていると、法人は死なないから、相続税を払わないわけです。(・・・)だから法人の所有分がどんどん増えていって法人経済になっていくわけだ。(・・・)これも、法人と個人を対等に扱うことの不合理の一種です。

 この辺はハサン先生の主張の核心につながるわけですが、わたしは「不滅のものは増殖してはならない」ということだと思っています。世の中には「永遠になくならないもの」と「勝手に増えるもの」があって、両方を合わせ持つようなものは大概ロクな結果を生みません。前者は言葉の世界、後者はイメージの世界のものですが、両方の重なりあう特異な場所というのは、厳しく制限されていないといけない。
 そのことは法人概念にとどまらず、金融資本主義の問題と連なってくるわけで、リバー(利子)を禁じる思想そのままなわけです。
 もちろん、利子にせよ「法人的な何か」にせよ、それなりに理があってこの社会に存在するわけで、それを全否定しても話が進まないのですが、ちょっと「調子にノリすぎている」ところがあるのは間違いないでしょう。
 わたしたちはいつでも、よくわからないものに踊らされて生きているのですが、踊り続けられない踊りならちょっと曲を変えるくらいの要領は見せないといけません。



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