基体幻想、フラットなホメオスタシスと馬鹿どもの死の欲動、メガネをかけた土人

これまでのお話:
良い抵抗と悪い抵抗などというものはない
このフラットな世界でおしっこを漏らしながら兄貴の死体を埋めに行く
馬鹿には普遍はわからない、でもそこがいい!
経験の執拗さとさておかれない冗談

 最近、若い人たちとお話する機会が結構あって、その中のどういう流れだったか、「どの宗教が良いのか、比べてみないといけない」みたいな発言を聞きました。そういう発想をする人は彼だけではないし、むしろ現代日本における一定の教養を持った人々の間ではスタンダードな見方かと思います。しかし、このブログでは何度も取り上げていることですが1、そうした視点は宗教についてほとんど何も実のあることを教えてくれません。宗教だけでなく、一定の「文化現象」、象徴的運動体一般について、極めて浅い理解以外得られないことでしょう。
 「宗教に入る前に宗教を色々比べてみる」という発想は、ちょうどショーウィンドウに宗教A、宗教Bなどが並べてあって、その前をお客さんが眺めて吟味しているような風景です。実際、そうした「消費者」の要望に応えるような新書本などが沢山あります。「わかる!イスラム教」とか「海外ビジネスに役立つキリスト教の歴史」みたいなセンスです。
 しかし、馬鹿には普遍はわからない、でもそこがいい!でも書きましたが、宗教というのはほとんど音楽で、言語のようなレベルで身体的なものです。正確には、言語と身体をつなぐものでしょう。もちろん、言語についても「消費者」的に語ることはできます。「ドイツ語は男性女性中性があるけど、フランス語は男性女性だけらしい」とか、大学一年生が第二外国語を選ぶ時のような会話をすることは可能です。しかしこうした語らいが、言語そのものについて何ら内実のある理解をもたらさないのは明白でしょう。そして重要なことに、こうした語らい自体が言語の中で行われています。わたしたちは既に巻き込まれているのです。
 すると多くの方は「言語には無言語ということはまずあり得ないけれど、宗教では無宗教というものがあるだろう」とおっしゃるでしょう。言いたいことはよくわかります。そしてそれこそが、今日的な「宗教」(無)理解を表しているのです。宗教が音楽のように言語と身体をつなぐものだとしたら、わたしたちは常に宗教に巻き込まれています。好むと好まざるとに関わらず、わたしたちは常に既に「宗教的」です。
 以前に「世俗」という概念についてお話したことがありましたが、この概念が生まれて広まったのは近代以降のことです。なぜかといえば、それ以前の世界では特に「宗教以前の状態」というものが括りだされていなかったからです。それほどのっぺりと「宗教的」であることが身体と結びついていたのです。そうした世界で「無宗教」と言えば、それはすなわち単に「悪い人」ということになります。エジプトなどでは今でも「無宗教」とか「無神論者」と言えば、子猫を笑いながら切り刻める人非人のようなイメージです。だから婉曲表現として「世俗」という言葉を使うのです。
 現代のような「宗教」(無)理解が広まったことの背景には、おそらく識字能力の一般化が深く関与していることでしょう。前にもお話した通り、基本的に宗教というのは字が読めない人のものです。イスラームに至っては、預言者ムハンマドも字が読めなかったと言われています。宗教だけでなく、本当のところ、わたしたちがその人類学的余波の中で生きている様々な文化現象のほとんどが、字が読めない人たちの世界を前提とし、育まれてきたものです。
 識字能力とは、時の中を流れて消え去ってしまう目に見えない言語というものを、言語の外にストックするものです。書き言葉は言語の外にあるのです。結果、それ以前の世界では重要だった韻を踏むような音楽的構造は次第に軽視されるようになります。これも前にお話した通り、消え去ってしまう言葉を記憶という形で頭の中にストックするための方便だったからです。おそらく、現代屈折語の多くでその屈折的特徴が減衰していっていることもこれと並行的でしょう。
 この歴史的変化から、わたしはいつも教会建築の変遷を連想します。古い教会建築を見てみると、窓が小さくてずんぐりしていて、中はとても薄暗く、陰気な感じがします。なぜ昔の教会の窓が小さかったかというと、単に建築技術が未熟だったからです。壁自体を分厚くして、壁で壁を支える、建物自体で建物の構造を保つ、そういう形にするより他になかったのです。ちょうど性数格の一致で、名詞・形容詞・動詞が同じ情報を指示して、互いに支えあっているようです。それが建築技術の向上と共に、柱や梁で建物の構造を保つことができるようになると、段々窓が大きくなります。光が入るようになり、そこにステンドグラスが使われたりして、今のカトリック建築のようなものが出来あがっていくのです。
 こうして光さす見通しの良い識字世界が出来上がっていくと、言語はその難渋な構造を必要としなくなり、宗教も「文化的オプション」のような扱いになっていきます。識字能力を持たない人々はリスト的・カテゴリー的思考法を苦手とし、大袈裟な形容を多用し、エピソード的に思考する、ということをお話しました。翻せば、識字世界とはリスト的・カテゴリー的な見通しのある世界です。「のこぎり」「トンカチ」「包丁」を包摂する、「道具」というそれ自体は目に見えない抽象概念が共有される世界です。この抽象概念は、本当のところ具象の後に析出されたものなのですが(正確に言えば、それが本当に「後」なのかは、古代ギリシャ以来の非常に長い議論がありますが)、あたかも最初にベースとして措定されているかのように、遡及的に居座るのです。近代的「人間」概念も同様です。つまり、そうした「基体」的なものが最初にあるのだ、という世界観が行き渡っていくのです。
 「宗教に入る前に宗教を色々比べてみる」という発想も、こうした「基体」ファンタジーによって成り立っているものです。わたしたちは最初はまっさらな「人間」、まだ「宗教」のスロットに何も設定されていない存在で、そこに宗教Aを差すか宗教Bを差すかはこれからよく考えます、というわけです。
 「基体」幻想が世界を覆っています。すが秀実さんが『1968年』の中で、ベ平連が言う「ただの市民」という言葉を取り上げています。果たして「ただの市民」というものが可能なのか。学生運動華やかなりし頃に、そこにコミットしない人々が自称した「一般学生」という言葉から漂う欺瞞は何なのか。あるいは「普通のサラリーマン」という言葉からどことなく匂う卑劣さ。そうした言葉は、一見すると「オプション」のついていないデフォルトの状態を示していているようですが、本当のところどこにもいない「まっさらなる存在」を身にまとうことで、その下にあるものを覆い隠しているのです。「わたしは何もしていないから、責任もありませんよ」というわけです。「基体」はあとからやってきて、最初からいたフリをするのです。

 この世界観とは何かと言えば、ここのところずっと語っているフラットな世界です。見通しが良くデジタルで透明なお金がどこででも通用し、バリアフリーでジェンダーフリーな明るい世界です。街灯が完備され防犯カメラがどこででも見守ってくれている、安心して暮らせる町です。識字能力の一般化、明るい「差別」のない社会、グローバリズム、貨幣の抽象化・物神化、そうしたものは、極めて大雑把ですが、一つの連鎖した流れの中にあります。
 そして、これも何度も言っていることですが、そうした世界が「悪い」というわけではありません。それどころか、基本的には「良い」ものです。というより、この世界において「良い」ということは、そのような明るく健全であることなのです。もちろん、少なからぬ人々がグローバリズムや監視社会に対して疑問を抱いていて、様々な方法で抵抗を試みています。彼らにしても、「差別のない明るい社会」が悪いと思っているわけではなく、ただその中の個別事例における「行き過ぎ」を批判されているのでしょう。つまり、そうした各論においては「良い抵抗」というものがあり得る、という発想です。しかし本当のことを言えば、前にも申しました通り、良い抵抗と悪い抵抗などというものはありません。抵抗は常に「悪い」ものです。なにより頭が悪い。馬鹿の馬鹿さ加減が抵抗しているのです。その悪を引き受けなければ、実のある抵抗など一つも可能にならないでしょう。
 実際、世の中を見回してみると、フラットな世界に本当に抵抗できているのは「悪い」ものです。ロハスなおばさまたちのアンチ・グローバリズムな不買運動などではないのです。ヤンキーだけが道に座り、本当の貧困層は悪事で身を立て、ドナルド・トランプが頑張っています。こんなブログを読んで頂けるような方は大体インテリで小知恵のついてしまった可哀想な人たちでしょうから、あまりそういうことが目に入らないかもしれませんが、世の中のほとんどの人は、想像以上に馬鹿です。世界がいかにフラットになろうと、馬鹿はそう簡単に賢くならないのです。わたしたちは常に、何十万年も続いたご先祖様の営みの人類学的余波の中にいますから、知的理解において多少「進歩」したところで、薄皮一枚はいだところでは相変わらず「土人」です。そして薄皮一枚すら飾れない「土人」丸出しの方たちも世の中には沢山いらっしゃいますし、世界全体で見ればまだまだ「土人」の方がメインストリームなのです。
 宗教についても同じことです。リアルな宗教はショーウィンドウになど並んでいません。「土人」たちが宗教の音楽に身を揺らしているのです。そして大学を出てデンタルフロスで歯の掃除をしているような人たちも、皮一枚下では「宗教」の余波の中にいます。ただ字があまりにも読めるようになってしまったので、それを感じることができなくなってしまったのです。識字能力の獲得と引き換えに失われた暗記能力のように、わたしたちは多くの感覚で劣化しています。そこをまず自覚し取り戻すことから始めないと、わたしたちのルーツの源泉に再び沈降しリアルなものを掴みとることなど到底能わないでしょうし、抵抗など夢のまた夢です。

 さて、このような馬鹿さ加減を山程かかえたまま、なぜかフラット化してしまった世界では何が起こるのでしょうか。「土人」たちがグローバルな道具に乗って走りだす、とてもサイバーパンクで面白い風景が出現してくるのです。
 外山恒一さんが編集している『デルクイ』の2号に「いまやサバルタンは喋りまくっている」という話題がありました。サバルタンとは、本当の最下層の言葉を持たない人々、社会に対して申し立てする手段を持たない人々です。昔は語れないサバルタンに代わって、左翼の人たちが代弁している、みたいな構図がありました。ところが、ネットの普及(もちろんそれ以前に識字能力の一般化と教育の大衆化)のお陰などで今やサバルタンは多いに語っています。そして口を開いてみれば、このサバルタンの中にはネトウヨ、レイシストみたいな左翼の嫌いな連中が沢山いたわけです。かわいいかわいいと思っていた子犬の声を「犬語翻訳機」で聞いてみたら「餌よこせ殺すぞコラ」って言ってたみたいなものです。『デルクイ』の対談の中では「左翼は『ちょっとサバルタン黙っててくれ』と思っているだろう」みたいな発言もありました。
 もちろん、一口にサバルタンと言ってもいろんな人がいますし、その境遇を改善する上で構造的に必要な運動と彼ら個々人の考えが一致しないのは当たり前と言えば当たり前なのですが、現況の一面としてはそういうところがあるかと思います。まぁ、ネットなんかあろうがなかろうが、田舎の無教養なおっさんおばはんとかと普通に話してみたことがあれば、彼らの多くが下世話で無遠慮な差別主義者であることなど自明でしょう。
 そもそも社会的立場が低い人ほど、大局的にものを見るような余裕はありませんし、当面のサバイバルのために長いものに巻かれるのは当然です。これはマイノリティの問題でも同じことで、指摘され尽くしているようなお話ですが、だからこそ権力は各個のグループを十分に小さくし、横断できないように管理しようとするのです。これに対して古典的左翼が連帯を訴えようと、それは却ってマイノリティの個別性を潰すことにもなりかねませんし、そんなところで大上段に語っているアクティヴィストが権力と比べてどれほどマシなのかというのも怪しいものです。わたし自身、マイノリティ的な属性がなくもないですが、アクティヴィストなど全然信用しませんし、仕事とお金の方が余程守ってくれます。
 ともあれ、かつて「虐げられた人々」として括られていた人々が実際に声を出すようになって、しかもその声というのが聞くに堪えない罵詈雑言である、というのは、なかなか痛快な状況ではあります。昔の左翼にとっての「可哀想な人たち」、女性とか障害者とか貧乏人とかそういったものが口を開いてみると、純情で育ちのいいボンボンインテリ学生の男の子なんかには到底耐え難い邪悪で醜くスジもヘッタクレもないようなものなのです。つまりそうやって、「向こう側」がクソミソになっていくわけです。
 大体、昔の世の中というのは見通しが悪く、全然フラットではありませんでしたから、社会のあちこちに見えない場所がありました。そうすると、見えないところというのは、穢れたものであると同時に、「こっち側」にはない何かスゴイものがあるんじゃないか、みたいな妄想が膨らむわけです。だから被差別者というのは同時にどこか聖なるところがあります。昔の左翼(すが秀実氏によればとりわけ70年の華青闘告発より顕在化する)の自虐的な「女性様、障害者様」的な語らいというのは、そういうものの裏返しだったのでしょう。
 それが今や、「向こう側」と言っても「こちら側」と大差なく、極端に劣るものでもなかったけれど、別に素晴らしいものでもなく、向こうもこちらも同じように見渡す限りクソクソクソだということがはっきりしてきたわけです。
 フラットな世界、グローバルでバリアフリーでジェンダフリーな世界がができあがればできあがるほど、世界のあちこちにあった段差や陰は排除されて、世の中の見通しが良くなります。インターネット上に乗せられた情報なら、地平線の向こう側までも容易に見渡すことができます(もちろんそれにより不可視化された問題もあるが、ここでは触れない)。そこで見えてきた風景というのは、もう地平線の向こう側までひたすらクソクソクソだったのです。
 そういう汚さというものに耐えられない人たちがいます。わたしなども、中途半端に小賢しい育ち方をしてしまったインテリプチブルの成れの果てですから、この見通しの良い明るい社会でよく見えるようになった薄汚い世界には、きちんと「まぁ汚い」と顔をしかめています。そういう人たちは様々な口実をつけて抵抗を試みますが、もちろんこうした抵抗は「悪い」ものです。
 つい先日、子宮頸がんワクチン反対に参加している右翼の人の話を聞きました。「年端もいかない女の子が酷い目にあうのが許せない」ということらしいですが、彼らは同時に「行き過ぎた性教育」にも反対しているのです。つまり、世界に暗部を残しておきたい、「年端もいかない女の子」を聖別化して保護=監禁しておきたい、スペシャルなものを残したい、という欲望が彼らを動かしているのです。これが抵抗です。今やフラットでグローバルな世界に抵抗している者とは、こういう人たちです。もちろん、この抵抗も「悪い」ものです。実に頭が悪い。
 ちなみにわたし個人は、世の中には特別なものなどなにもないと当然信じていますし、特別なものは世の外におわしますところのアッラーだけですから、そんなしょうもない「日陰」など問答無用にペンペン草一本生えないほど破壊してしまえば良いと思っています。これがフラットな正義です。他のところで「行き過ぎなんじゃないか」と心配したところで、自分の尊厳や生活が関わることになったら、人は簡単に正義に堕ちるのです。わたしも正義に堕ちます。逆に、この文脈で言うところの右翼の人たちがそんな悠長な問題に取り組めるのは、それが彼らの生にとって生命線でもなんでもないからです。所詮は女子供の問題だからです。わたしも同様に、余裕のある時には道楽で悪いことをします。
 つまりこのフラットでグローバルな正義と抵抗の悪とは、ホメオスタシスと死の欲動のような関係となっている訳です。わたしたちは大概、最終的には結構馬鹿なので、死の誘引は断ちがたいのですが、一方で円環的・循環的な生というものも執拗です。フラットな世界は執拗なるホメオスタシスですが、死の欲動も所詮は道楽と言ってしまえばそれまでです。わたしたちは、生活に関わることならホメオスタシス的にお上品に行動しますが、死活問題でないところでは少しはっちゃけて「人間らしく」振る舞ったりするのです。
 念のためですが、ホメオスタシス=生、死の欲動=死ではありません。ここで言うホメオスタシスとは、生も死もなく円環的・視覚的・無時間的な世界のことであり、対する死の欲動とは、死あるが故に生があり、時が流れ、音声的で直線的な世界観が対応しています。

 お上品でバリアフリージェンダーフリーでグローバルだったはずのフラットな世界、執拗なるホメオスタシスに駆動されて実現したこの世界は、逆説的に品性下劣なるサバルタンたちをむき出しにしました。基体幻想に乗っ取られたグローバル宗教の果てに制御し難いジハーディズムが連鎖するように。一方で、粗野で愚劣な抵抗の中に、「良い抵抗」のような迷妄を信じるお上品な層があります。「道楽」で命をかけて峠を攻める少年たちのように、オバサマたちは生と死のリアリティを求めてお上品にもホームレスに施し、商店街を守ります。もちろん、彼女たちの町にはホームレスもチャイマもいないのです。そのような逆転現象の中に、わたしたちは放り出されています。
 もしも本当にヒンコンソーと共に歩むなら、例えばファスト風土として批判されている狭義のもの、ミスドとマクドとパチンコ屋しかない郊外みたいな風景そのものについても、肯定的に見なければなりません。それは彼らにとって「生命線」側のものであり、つまりホメオスタシス、フラットの側のものだからです。商店街を守るのはイオンがなければ肉屋で肉を変える「道楽」層でしかありません。
 ファスト風土的な郊外こそが前線であり、イスラエルの入植地なのです。それを安易に「非人間的」「非文化的」だとするような小綺麗な抵抗をしているのは、ロハスなおばさまたちでしかありません。(ヒンコンソーの側としては)そんな浮ついた夢は早々にブルドーザーで踏み潰して、抵抗は常に「悪いもの」としてしか成り立たないことを露出させなければいけません。入植地が気に食わないなら、ちゃんと石を投げたりロケット弾を撃ちこんだり「悪いこと」をするより他にない、ということをあからさまにしなければなりません。
 トイレを注意書きだらけにしろ!というのと同じ意味で、駅前なんか全部マクドとドンキで埋め尽くして、ジャージ着たヤンキーが万引きしてればいいんです。むしろまだまだ足りない。表参道とか西麻布とかもミスドで焼きつくせばいいのです。吼えよポンデライオン!です。
 もちろんこれはヒンコンソーの側からのお話であって、お金持ちにはお金持ちの生命線があり、道楽があります。日本の保守と革新が政治思想と経済政策において捻れている、という指摘がよくありますが、この視点に立つと、日本のリベラルというのはその生命線と道楽においてある意味一貫しています。彼らはフローではなくストックが幅を利かせるグローバリズム寄りの経済政策を実行しながら、同時に「弱者」やマイノリティに対しては「保守」よりは優しく配慮します。なぜなら彼ら(プチブル都会人)にとって生命線はストックであり、在日外国人だのLGBTだのは道楽の世界だからです。

 さて、宗教の話から始まったかと思ったら、例によって全然関係ないようなところに行き着きました。なんというか、お金持ちにはお金持ちの生命線と道楽があり、貧乏人には貧乏人の生命線と道楽があり、人類皆ポジショントークのような身も蓋もないお話になってきました。
 ここからはまったく個人的などうでもいい吐露になるのですが、こうして考えれば考えるほど、ある種「何も言わない相対主義」に陥りそうで、行われることは既に行われているような気分になってきます。世界は清く正しくフラットな正義を実践し、一方でちゃんと馬鹿どもが抵抗してくれているので、もうわたしの出番などないのです。実際、わたしはわからないのです。小さい声で「わからない」と呟くのです。
 わたしは「サバルタン」も嫌いだし、お金持ちも嫌いです。粗野で無教養な田舎のオッサンみたいなヤツを焼き殺したいし、一方でキレイ事しか言わないインテリ共、フェアトレードのコーヒーなんか買ってるロハスなヤツらには通帳と印鑑置いて海に飛び込め!と思っています。全共闘崩れの左翼の皮を被った土着ナショナリストのオヤジどもも嫌いだし、ガチでPC的な「女子供」の市民運動もフェミニストも嫌いだし、表現規制反対と言いながら結局自分の好きな表現を守りたいだけのオタクどもも嫌いで、なによりオカン的なものを憎んでいます。母も子も障害者もホームレスも死ねばいいし、中国人も日本人もアラブ人もアメリカ人も嫌いです。
 わたしたちの世界は、地平線の向こうまで見渡す限りクソクソクソです。男もクソ、女もクソ。クソとクソが戦争して、クソとクソがセックスして、クソの車椅子をクソが押してるんです。
 わたしの住む町は大都会でもなければ郊外までもいかない、中途半端な場所です。そこそこ歴史があり商店街もあるけれど、地元の商店よりはチェーン系の店が目につき、もちろんマクドもミスドもユニクロもあって、一方でマツモトキヨシでは中国人の店員が中国人の客に粉ミルクを売っています。うんざりするほど中国人だらけだけれど、その中国人はまだそこそこ品の良い類のもので、チャイマが人を殺しているところまではまだ徒歩30分くらい猶予がある。道を歩くうるさい中国人にはいつも「死ね」と思っていますが、そういう粗野でテキトーな人たちが幅を利かせる世界がむしろ正しくアジア的でお気軽なのではないか、という淡い希望も抱いています。何もかもが中途半端です。
 素朴な右翼であれば自分のルーツ的なものに足がかりを求めるのでしょうし、そういうヤンキー的で土着的な志向性をわたしは大変肯定的に見ていますが、わたし自身は果てしなくルーツから切り離された人間で、家族からも縁遠ければ、生まれ育った町もディズニーランドのように嘘くさく、核攻撃でもされて消えてなくなってしまうことを願っています。以前にスーツ着たヤツらに騙されて町に出てきた挙句田んぼもないところで野垂れ死にするする人のことを書きましたが、わたしなどは受精卵の頃から踊らされていて、気がついた時には神も仏もなかった人です。そういう悪い意味で都会的な人間としての宗教を持っていますが、そこに入っていった頭がまた基体幻想的なものに汚染されきったところからスタートしていますから、方向性としては逆なのです。本当は、もっと土人的に信じたいのに、土人とは正反対のメガネ的なものから始めて土人に方に掘り進んでいるのです。これはこれでわたし個人の生命線ではありますが、どんなに頑張っても土人には勝てないのです。ちなみに、この都会性ということで言えば、ファシズムには大変シンパシーを持っていますが、日本における真のファシストは大変脆弱で数も少なく、頼りないこと2ちゃんねらーの如しです。
 でも仕方がありません。至らずながらも自分の中の字も読めない土人の声に耳を澄ませるしかありません。
 見通しが良くなってクソしか見えないなら、そんなものが見えてしまう自分自身の目を焼くしかありません。目が見えなければ、手探りで世界と向き合うでしょう。手はそんな遠くまでは行けません。触れるものにも限りがあります。触れた先にいたのが男なのか女なのか、年寄りなのか若者なのか、貧乏人なのかお金持ちなのか、日本人なのか中国人なのか、すぐにはわからないでしょう。そのわからない間に手に触れたもの、名前がつく前のもの、そうしたものだけを確かなものとして道標にするしかありません。
 触れてすぐにはわからなかった、その名前がつくまでの未明の時間だけが土人的であり、唯一まだクソではないものです。
 わたしにとって老人はもちろんクソですが、目の前で倒れたお年寄りがいれば助けます。実際、わたしは長年反射で身体が動くように心がけてきたので、そういうつまらない反吐が出るような小さな親切系のことは割とできてしまうタイプなのです。やってしまってから「しまった」と思うでしょう。失敗です。でももう過ぎてしまったことなので、どうにもなりません。土人のやったことです。
 こういうと、否定神学、神秘主義という声が今にも聞こえてくるようですが、わたしは頭のおかしい宗教の人なので、もう最初から神様がかっています。もう手遅れです。馬鹿につける薬はありません。
 クルアーンによれば、人間は土から作られたそうです。土からできれば、なるほどそれは土人でしょう。必ずどこかに土人が残っているはずです。メガネをかけた土人がか細い歌を歌っているのです。

  1. もう選ばれちゃっていることを発見する選ばないことでは無宗教にはなれないなど
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