白黒つけることと諦めること

 悪いことが起こると、人は「何がいけなかったのだろう、何が原因なのだろう」と考えます。
 悪いことの原因がわかれば、同じことが起こるのを防ぐことができますし、誰が責任を負うべきなのかもはっきりします。
 ですから、この反応は至極真っ当で、むしろ原因をしっかり考えることで世の中良くなってきた面は大いにあります。
 一方で、何が悪いのかよくわからなかったり、悪いことは確かにあるけれど、誰のせいなのかははっきり言えなかったり、あるいはまた、その悪さを取り除いたり改善したりする余地が全然ないこともあります。
 最近、自動運転絡みの話題で、事故が起こった際の責任の所在が議論されていることがよくありますが、こういうのもよく分からないところが多いわけです。
 そういう時に、原因というのは分かるもので、白黒付けられるものなのだ、という前提が強すぎると、どこかいびつな結論が無理やり導き出されたり、周転円的なトリックを重ねて辻褄を合わせるような状況が生まれます。
 人が死んだり大損したりする結果があると、そうそう原因について手加減できないというのも尤もなのですが、世の中には何が原因なのかよくわからないことは沢山ありますし、何が悪いのか、誰が悪いのか、はっきりしないことの方が多いものでしょう。
 そういう時に、昔の人はサタンのせいにしてみたりしたわけで、今だって「そういう日もある」「そういう血が流れていたんだ」「運命だったんだ」といった、実に曖昧で何一つ教訓の得られない納得の仕方というものがあります。
 バッファというか、遊びのような部分がシェアされていて、「よくわからないもの」は、そういう「その他」フォルダみたいなものに放り込んでおくのです。
 保険のシステムとか、共同体とか国家とかが行うことも、こういう「その他」的なところがあります。
 誰が悪いとか誰がいくら払うべきとか、キッチリやろうとするとかえって手間ばかり増えるようなときは、「その他」でプールしてテキトーに処理するのです。
 すべてを個人に分解して、誰が何割悪い、誰がそれはこれこれのサービスを受けたから幾ら払うとか、そういうやり方がスッキリ行くときもあれば、そうでないときもあります。そうでない時に、変に手間をかけるより「その他」の方で処理するのです。
 「その他」というのは、スッキリ行っているうちは無駄な部分ですから、合理的にやろうとすると真っ先に削られるところなのですが、結果、かえって手間が増えてしまうこともあるでしょう。
 そして、どの辺が手の打ちどころなのか、どこまでスッキリやって、どこからテキトーにやるのが按配として良いのか、その辺は非常に難しい問題で、皆んな考えてもよくわからないので、昔からやってる枯れた按配というのが重宝されるのです。
 今は世の中どんどん変わってくので、按配というのがうまく伝わらず、頭の良い人に頼んでいい按配を考えてもらおうとしているのですが、どんなに頭が良い人でも、人類が何万年もかけてああでもないこうでもないとやってきた知恵に比べればまるで足りません。そのせいで、うまいことやろうとした結果が、かえって手間ばかり増える、みたいなことが沢山あるように思います。
 じゃあどうするのだ、というと、例によって結論はないのですが、わたし個人としては単に考えるのが面倒くさいので、極力「そういうものなんや」と思うようにしています。
 白黒つけるようなところにはなるべく居合わせないのが、楽して生きる要領でしょう。
 そうはいっても、生きていれば面倒くさいところに出くわすことはあるわけですが、その時はこれも運命ですから、うんざりしながら心でサイコロを振って「こいつが悪い」とかもっともらしいことを言っているのです。
 多分ですけれど、世の中にはわたしと同じくらい横着な人もそれなりにいるでしょうから、人の言うことは真に受けないことです。すべては運命です。

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