新しいものも古いものの焼き直しとして見切ってしまうこと

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 少し前に匿名のブログ記事で、「歳をとると保守的になり新しいことに興味を失うのは、新しいものを受け付けなくなるのではなく、新しいと言われるものも古いものの焼き直しのように見えてしまうからだ」といった内容のものを読みました。
 歳をとって新しいことが苦手になるのには色々な理由があるでしょうし、とてもここだけに還元できるものではないでしょうが、面白い指摘です。
 そもそも歳をとっても新しいものが好きな人もいますが、それはともかく、思い当たるところはあります。
 まだそれほど歳をとったつもりもないのですが、たとえば音楽や小説、漫画などのユースカルチャー寄りのものについては、年齢と共に嗜好が変わったり、十代二十代の頃より興味が持てなくなった、という経験は多くの人にあるのではないでしょうか。
 人は年齢と共に経験を積んできますから、新しいものとして何かを示されても、「ああ、それはアレね」と、経験の枠の中にある何かに結びつけて、そこで了解してしまうのです。何かの焼き直しのようなもの、一見新しいように見えても本質的には以前からあるタイプのもの、「古典」の一変奏として受け止めてしまうわけです。
 実際、世の中にあるほとんどのものは、それまでにもあったものをちょっと変えて出してみました、という類ですから、全く間違ったことを言っているわけではありません。
 広く芸術の類のものも、全くの無から突然できあがったというようなものはまずありえないわけで、そもそもそんなものは作品として人に受け止めてもらえません。
 普通のものをちょっと変えて出すから面白いのです。
 また、歳をとり経験を重ねることで、新奇なものに一々はじめから理解しないようになる、というのは、悪いことではありません。それが経験の良さというものです。ある程度のパターンを自分の中に蓄積していき、それらを組み合わせて適用することで、最小限の労力で新しい状況に対応しようとしているのです。
 ですが、こと娯楽に関して言えば、新しいものを素直に楽しめないのは少し損なところもありますし、また自分より若い世代から「面白味のないつまらない人」だと思われてしまうこともあるでしょう。
 これはどっちにも理があるもので、年寄りの見切りの早さにも、若い人の心躍る性向にも、それぞれの故があって、良い所と悪い所があります。お互い、相手をナメてかからないよう、軽々に馬鹿にしてかからないほうが身のためです。
 圧倒的に「新しいもの」として何かが目に映った時は、はやる気持ちを一旦おさえて「そうは言っても賢い人は沢山いるもので、誰一人これを前に考えたことがないなどということはあるまい」と疑ってかかった方が安全です。一方、この手の良識が備わり過ぎてしまうと、娯楽については十全に楽しめないですし、また新しいことを始める勢いのようなものが削がれてしまいます。はじめはただの勘違いでも、勢いをつけて何かを始めてしまうというのは、人生を導いてくれる貴重な失敗でしょう。恥をかかないと楽しいことはできません。
 わたし自身も「ああアレね」「どうせ○○でしょ」という見切りの早さで物事をつまらなくしてしまうことがよくあるようになってきましたが、そういう時は、物事の本質をあまり見ないようにしています。
 本質を見てしまうと、そういう部分はそうそう変わるものではなく、また変わっても困るもので、新しみというのはそうあるものではありません。ここは見切って良いところです。
 そうではなく、ディテールのところ、食材を冷やして入れておけるところは変わらないけれどチルドなるものが付きましたよ的な、ちょっとの工夫のところだけをなるべく見るようにしています。
 そうすると、本質的には古典的なものであっても、ささやかな新しみ、趣向というものを素朴に楽しむことができます。
 大体、人生において楽しい部分というのは、こういう細かいどうでもいいところに宿るもので、生まれてもどうせ仕事して疲れてそのうち病気になって死ぬんだろ、と言ってしまえばオシマイです。それはまったく間違ってはいないのですが、そういうところを見ても楽しいものは何もないので、細かくてどうでもいいところだけなるべく目を置くようにします。
 わたし個人としては、「本質的」なところは全部神様に投げてしまって、あとは自分の無知な部分、些細などうでもいいところ、部屋の隅の埃を掃除するみたいなことをして、時を燃やしていきたいと思っています。



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