ミミを閉ざす、イミを閉ざす

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 本当に、耳を閉ざすことができない、ということが決定的なのだ。
 意味は、常にわたしたちが理解する前に現れる。
 理解が意味を示すのではなく、与件のように意味がやってくる。そして耳は、聞こえすぎないことにより音を分節するのではなく、ただ音に晒されている。
 問題は、意味が言語の機能のように理解されながら、象徴的分節に先立っている、ということだ。もちろん、意味を分節することはできる。しかしこの理解は、常に意味に追いつけない。
 これは単に、コトバがコトバに回付され続ける、ということではなく、その回付の先には「本当に」意味があり、しかもこの意味は失われてもいないし、常に過剰なまでに届いてしまっている、ということだ。
 突然に意味を発見する人を(神経症者ではなく)精神病者というが、わたしたちの意味の認識は、突然に発見する、という仕方以外にない。象徴化とは、むしろ意味を無意味にする働きにより、身を守り、意味に「像を結ばせる」ことだ。

 意味に対してのこの圧倒的な無防備さ、常に意味に晒されている恐怖。
 いかなる象徴化の姦計も、ミミを十分に閉ざすことはできない。だから、イミ以上のイミによって、突然のイミを締め出してしまうしか、方法はない。