もしかしたら死なないかもしれない、死ぬかもしれないこと

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 いわゆる「ニセ科学」を批判する向きなどによって、マクロビオティックやその他の「健康食思想」がやり玉にあげられることがあります。
 おそらく「科学的」にこうした批判は間違ってはいないのでしょうし、巷にあふれる「○○は身体に良い」「○○を食べるとガンになる」みたいな話の多くは眉唾だろうとわたしも思っています。
 そして本当に身体に良い、ただただ「健康」を手に入れるため、あるいは病気を治すため、という目的だけで、気休めを越えてこうした怪しげな民間療法に踊らされるのが危ういことであるのは、その通りでしょう。標準医療を拒否せず、それを阻害しない限りにおいて、プラスアルファで個人的に取り組む分には別段問題もないでしょうが。
 ただ、ここで言いたいのは、「健康食」の科学的是非や、有効性についてではありません。
 「食を制限する」というそのこと自体です。
 「食を制限する」行い自体は、別段珍しいものではありません。多くの宗教で食の禁忌や制限、断食の習慣がありますし、場合によっては食を断つことで自死する行いすらあります。また、どのような文化にも「食べて当たり前」のものと、「食べるなんてとんでもない」ものがあり、その区分は必ずしも栄養学的に裏付けられたものではありません。
 言うまでもなく、食べるという行為は単に身体を維持するだけのものではなく、象徴的に構造化されたものであり、その中にはエロティックな力動、死が紛れ込んでいます。食の制限もまた、こうした食の象徴的機能の一側面と言えるでしょう。
 最も極端なものは食を制限して死に至ることですが、ある種の食思想に殉じてそのまま健康を害して死んでしまうというのも、似たところがあります。
 「いやいや、宗教的な食の制限と健康食では全く目的が違う」と言われるでしょう。表面的にはその通りです。しかし、表面上「健康」を標榜している行いの多くは、実のところ実態のはっきりしない「健康」なるもの自体というより、食の象徴的側面によって駆動されている部分が少なからずあるはずです。
 それでも「宗教的行為と自覚しているものと、そうでないもの」の区別はあり得ます。あり得ますが、実際の所、その区別とは権利上のものにすぎません。
 こうした「合理的」批判を行う人びとは、宗教というのは何か文化的な塊であるとか、根拠のない土台の上に築かれた思想体系のようなものだと思っていますが、ほとんど言語と同じレベルで身体と実続きのものであり、わたしたちは自分たちがどれほど宗教的であったり、あるいは非宗教的であったりするのか、自分自身でも知りません。狭義の宗教的な食の禁忌とマクロビオティックまでは地続きに続いていて、どこかでデジタルな断層が走っているわけではありません。
 もっといえば、摂食障害などは、極めて現代的な形での聖なる断食でしょう。
 もちろん、彼・彼女たちはそれとして自覚はしていないでしょうが、そうした人びとを前にした時、なにか聖的な、超然としたものを感じたことのある人もいるでしょう。逆に、宗教的な食の禁忌に従っている人びとも、その外側にいる人びとの想像するような形で「これはシューキョーだから」などと思って、一息ついてから食を制限したりしているわけではありません。その制限自体が、身体の一部であるかのように、禁じられているのです。
 「健康のためなら死ねる」というのは、健康オタクを揶揄するユーモアですが、本当に「健康のために死んだ」人がいたとしたら、ある意味、それは殉教です。その死には見るものを畏れさせるだけの何かがあります。少なくとも、その人は自分の命を捧げるだけのものを見つけ、実際に捧げることに成功したのです。多くの人は、それを見つけ信じこむことすらできず、ただ摩耗し、最終的には同じように死ぬしかないにも関わらず。
 少なからぬ人びとが気付いていることでしょうが、食の制限の表向きの目的は「健康」であったとしても、そうした人びとを突き動かしているのは不安です。そこはかとない不安、明日にも病が発覚するかもしれない不安、職を失い生活の崩れ去る不安、不測の事態によりすべてを奪われるかもしれない不安。ベタな言い方をすれば「願掛け」です。実際、食を断って願を掛ける、というのは、この国で長い間行われていた風習ですし、今でも実践する人はいます。
 願掛けをする人は、教育のないかわいそうな人だとか、クルクルパーだから願を掛けるわけではなく、無駄だろうと思いながらも不安にかられて願を掛けるのです。実際、彼らの不安自体は本当であり、一寸先は闇であるのも事実であり、願掛けが無駄だろうが何だろうが、それが変わることはないのです。
 不安すぎて死んでしまう、という人がいますが、それはある意味尤もなことで、死ねばそれ以上死にません。
 ですから、食の制限というのは、健康とか幸福とか何かそういったことのために健康を害し死を招き寄せてしまう愚かな行為、というのではなく、むしろ「もしかしたら死なないかもしれない」ものとして見なければいけないのです。
 死にそうなことをやって死ぬかもしれない、というのではなく、死にそうなことをやってもしかして死なないかもしれない、という、全く逆向きの視点です。
 それでうっかり死んでしまっても、なにせ死ぬかもしれないようなことをしているのですから、死んで当然です。なにもしなくても死ぬくらいですから、死ぬようなことをして死ぬのは驚くようなことではありません。
 でも、死なないかもしれない。
 ここに食の制限のエロティシズムがあり、死が生の中に入り込み、死によって生かされる聖なる裏返りがあるのです。
 わたし自身は、別段マクロビオティックを実践したりはしません。しかしそれは、マクロビオティックが「ニセ科学」であるとか、別に健康に良くないから、といった理由からではありません。ただ単に、別の宗教を信じているからです。
 そして、マクロビを信じる人びとを、少し奇妙だとは思いますが、別段愚かだとは思いませんし、彼らは彼らの道を進み、死んだり死ななかったりすれば良いと思っています。
 極度の摂食障害にとらわれても、死ねば殉教、死ななければ奇跡であり、何か畏怖に近いようなものすら感じます。
 もちろん、彼・彼女らと近く交わることはないし、身近な人がこれらにとらわれそうになったとしたら、何とかして引き戻そうとするでしょうが、それは宗教的な狭隘さ、自らの信仰に対するエゴから来るものです。
 何と言っても、自ら死んだり死ななかったりする「この」聖なる食を、目の届く範囲で守りぬくことが、わたし個人のまったく身勝手な理由によって他人の信仰よりずっと大事だからです。もっと言えば、わたし自身の信心が弱く、目の届く範囲で余計なものを見たくない、ということでしょう。
 「もしかしたら死なないかもしれない、死ぬかもしれないこと」が、生を駆動しています。



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