「悪いもの」

シェアする

 中産階級とは誰か、権威・不平等における外国人恐怖(『シャルリとは誰か?』捕捉)で、

 「犠牲者」イメージが社会的に広まっている層とは、往々にして、「そのイメージを社会的に定着させることに成功した層」です。そして、本当に犠牲にされている人びとは、しばしば「悪人」や「無法者」という像を世の中に結びます。

 ということを書きました。
 だからといって、「悪人」は「本当はかわいそうな人」として、救いの手か何かを差し伸べるべき、という話にはなりません。
 いや、救える時だってあるかもわかりませんが、わたしたちは常に、「かわいそうな悪人」を踏みにじることでこの善良なる世界を守っている訳で、色々勘定に入れた上で、やはり悪い人は悪い人なので粛々と裁く、というのが、自らの生に対する責任のようなものとして課せられています。
 こうしたことは今までにも何度か書いています。

 テロやゲリラ的闘争手段や「貧者の核兵器」を「卑劣な悪」のように描くのは、あくまで「持てる側」の方便であるけれど、一方でわたしたちの多くが「持てる側」にいる以上、善悪ではなく単なる功利として、「卑劣な悪」の陣営を叩くのはある意味筋が通っている、ということです。ただ、別にそれは正義ではないし、正義と喧伝するのは、単に自分と大衆の精神衛生上の問題でしかありません。「ちゃんと人殺しの顔をしろ」というのが、最後の倫理なのではないかと、わたしは考えています。
 「人殺しの顔をする」のは気分の良くないことですし、出来れば手を汚したくない、手を汚していても汚れていないフリをしたい訳ですが、ぎりぎり出来る範囲で「人殺しの顔をする」ことが強さだと思いますし、正しいということは強いということです。何かが弱いということから、多くの不幸が生み出されてきます。そうした強さを求めて踏ん張るくらいしていかないと、もう最後の一線もなし崩しになるのでは、というのが自分の倫理です。人殺しの顔をしたくないなら、人殺しをしなければ良いのですし、それを選べるならその方がもっと良い訳ですが、時には選ぶこともままならないのが普通の人間の人生でしょう。
最貧困男子、『ギャングース』、止むにやまれなさの倫理 – 数えられなかった羊

  こうした「道徳的」言説というのは、「持てるもの」の末席に位置する人々、つまりわたし自身を含む大衆というものが、安心して人殺しが出来るようにするフィルターでしかありません。まぁ、実際、そのお陰で本当に安心して人殺しができるわけですから、きちんと機能しているといえば機能しているのですが、何か気持ち悪いものは残ります。
 この最後に残る気持ち悪さこそ、倫理的な抵抗なのではないかと考えています。
 ここでの倫理とは、フィルターとしての道徳に相反するものであり、ホメオスタシスというよりは死を求めるものです。
 ちゃんと人殺しの顔をする、ということです。
「貧者の核兵器」、暴力の公平性、死に向かう倫理 – 数えられなかった羊

 一周回って「悪い人を悪い人として扱う」ところでは何も変わらないといえばそうなのですが、それでも何か割り切れないものが残ります。
 「『本当は』悪い人ではないのだけれど」というような、零度の「本当」、実質上は何も機能しないエクスキューズのようなものを挟みたくなるような、整理のつかなさです。
 正確に言えば、彼らの一部は「本当に悪い人」かもしれません。しかし「本当に悪い人」すら、どこか「本当のところ」は悪そのものではないのではないのか、という隙間のようなものが感じられます。
 この感じというのが、運命というか、定められたもの、というものに対する感覚だと思います。
 「本当に悪い人」すら、運命に踊らされていて、そして運命の奴隷であることでは、わたしたちもまた同様だということです。
 悪というものに向き合う時、わたしはいつも、自分の中の意志や自由というものが、陽炎のように霞んでいくような感覚を覚えます。
 もちろん、わたしたちは少なくとも日常の意識の中で意志というものを信じていますし、そして意志や意図の名のもとに裁かれたりもするのですが、同時に、自ら選んだ筈のものすら、我ならざるもの、定められたものによって突き動かされている、ということを、わたしたちは「知って」います。
 二つの相矛盾する様相を、同時に成立するものとして、わたしたちは共に「知って」いて、ただ仲裁できないまま生きています。
 この「運命」というのは、別段超自然的な話をしているわけではなく、何なら「偶然」と呼んでも良いのです。ただ世界を眺める方法として、意志や意図というものをすべて排除しても語ることは可能なのであり、そうした語らいと、意志や意図を前提とした語らい、その二つが同時に成り立ちうる、ということです。片方だけを完全に捨て去る、ということが、わたしたちにはできません。

 こういうことを考えている時に、よく思い出すのが、「神が存在するならなぜ世の中に悪があるのか」という、素朴で伝統的な問いです。
 別に現代の中学生だけでなく、もう何千年もこういうことを考えている人たちがいます。
 これに対する神学的な回答にも様々なものがあるでしょうし、例えば、この世界は試みであり、善と悪があるという前提の中で善を選ぶことができるのかというテストなのだ、といった風に答えることもできるでしょう。
 ただ、わたしが感じているのは、むしろ「悪いもの」がこの世にあるということが、神の存在を証している、というこです。
 多分、神様にとっては良いも悪いもないのです。
 あるものは、ただあるのであり、神様にとってはすべて帳尻があって良いも悪いも何もないのです。
 そして同時に、わたしたちはそうした視点には立てないもので、常に良いとか悪いとか、そういうものの見方でしか対することができません。
 いやいや価値判断を排して物事を考えることは可能ですよ、と言われるかもしれませんが、それは丁度、上に書いた二つの様相と同じことで、可能であるにしても、それ一本だけでやっていく、ということはできません。もしそうしようとしたら、わたしたちは世界の外部に出てしまって永遠に参加できないままか、あるいはまた、世界の只中で遮るもののない光の直射に焼かれてしまうのです。
 なぜなら、「悪いもの」が実のところ「弱いもの」であったり、運命の奴隷であったり、もっと言えば単に「運の悪いもの」だとしても、わたしたちは依然として、この世界に留まる限りにおいて、「悪いもの」を悪として裁かなければならないのであり、それは丁度、太陽を直視するように、見るためのもので見ること自体を損なう行為なのです。
 目は見るための機関だとわたしたちは思っていますし、そして太陽の光がなければわたしたちは見ることができないのですが、その光そのものに直接に目を向けることはできず、目は見ると同時に、強すぎる光を遮るものでもあります。
 「悪いもの」が世界にある、ということ、そのようにわたしたちに見える、ということは、目を焼かれないためのある種のフィルターなのです。
 同時に、直視できないが太陽の光というものがあり、それが見ることを可能にしている、というこをわたしたちは「知って」いますし、それは丁度、良いも悪いもない、という、不可能ではあるけれど想定することのできる視座というものと等価です。
 「悪いもの」とは瞼の陰のようで、そしてわたしたちはすべて「悪いもの」というか、「悪いもの」を悪たらしめている、そのような作用により、この世界に存在しているのだと、感じています。