「知っている」者と「正しさ」

スポンサーリンク

 先日、ある免疫系の難病を患っている方の書いたブログ記事を読みました。
 その人は思春期の頃からたびたび強い倦怠感や疲れにおそわれていたそうですが、病院に行っても原因が分からず、精神的なものとかうつ病と言われたり、年齢と共に落ち着いてくる、といったようなことが言われていたこともあるそうです。周囲の人からも理解が得られなかったようです。
 それが遂に、免疫系の難病だということが判明してホッとしたそうですが、その時一番良かったことが「他人に説明できる」ということだったそうです。
 これは示唆に富んだ言葉だと思います。
 その病気は難病指定されているくらいですから、おそらくそれと分かったところで簡単に治るようなものではないのでしょう。まだ治療法も分からず、もしかすると一生そのままかもしれません。それでも「説明できる」ことがその人にいくらかの安心をもたらしています。
 ここから読み取れる教訓の一つに、周囲の人がもっと思いやりをもって接し、軽々しく「サボっているんじゃないか」などと思わないことだ、というものがあるでしょう。そのように受け取る方も多いでしょうし、悪いことだとも思いません。しかし、そうした個々人に強い精神力・タフな寛容さを求める教えというのは、(理想としては美しいかもしれませんが)わたしとしてはあまり注目する気がありません。そのような理想は、確かにいままで不当に扱われてきた人に一定の安寧を与えますが、他方で他の人々が「まともである」為に必要な敷居をいたずらに高くしていて、世の中全体として果たしてどちらが望ましいのか、微妙なところがあります。高度に発達した日本のサービス産業の陰で、低賃金で高いサービスを要求される飲食業店員が苦しんでいる風景のようです。
 わたしが気になったのは、「正しさ」や「釈明できること」が、問題そのものの解決と同じか、場合によってはそれ以上に大切である、ということです。
 もちろん、この人が難病であることを説明したところで、それで周囲の理解が100%得られる、などということはないでしょう。重要なのは、「釈明できる」ということで、それはつまり、自分自身に自分を説明できる、自分の「正しさ」を少なくとも一定程度は証だてられる、ということです。
 この場合で言えば、病院というものがその「正しさ」を与えてくれています。そういうケースはままあるかと思います。
 しかし当然ながら、病院の主たる使命は病気の治療であって、「正しさ」を与えることではありません。「正しさ」はある種の権威から与えられるのですが、病院=医学が現代社会で一定の権威を帯びているため、結果として「正しさ」を付与できているだけです。
 そして現代社会で権威を帯びるものというのは、その正しさの源泉を、非常に広い意味での「科学性」に負っています。ここで言う科学というのは、「真理に漸近するが、真理そのものではない」という意味です。つまり、常に反証可能性が明示できていなければなりません。反証可能性を示せないものは、正しいとか間違っているとかいう以前に無意味な言明とされます。99%正しいであろうことでも、真理そのものではありません。真理そのものである、と言ってしまえば、それは広義の科学性に反する、恣意的な言明とみなされます。常に最後の1%、覆される可能性というのが(ほとんどないにせよ)担保されていなければなりません。
 これと対比するとしたら、それは律法的な宗教的言説になるでしょう。聖典には解釈の余地がありますが、それ自体としては変更不可能で、その真理性は単に「正しいから正しいのだ」というだけのものです。何か絶対的に正しいものが最初にあって、そこからの解釈については真偽の可能性があるものの、間違いなく正しいものが既に確定している、というものの見方です。
 言うまでもなく、このような姿勢は世界の真の姿を描き出す上ではマイナスです。わたしたちが有限の存在である以上、世界そのものには接地できないのですが、それでも漸近していく、そのような態度だけが世界そのものへの探求、「知」を保証するのです。
 ただ、これは裏を返せば、「わたしたちには分からないことが沢山ある」ということです。「科学的」態度を表層だけで受け取っている人々はしばしばそれを魔術的なものと取り違えて勘違いしますが、「科学的」態度は、「分からないこと」を前提としているのです。分からないから漸近するのです。
 そしてそのような姿勢が権威を裏打ちしているとすれば、現代における権威とは、本当のところ「分からないことが沢山ある」者です。
 それはそれで、本当は別に問題ありません。問題は、少なからぬ人々が、この権威を「知っている」者と取り違え、さらに当事者自身も「知っている」者のように振る舞わざるを得ない、あるいは自ら振る舞ってしまう、ということです。
 わたしたちは誰かに「知っていて」欲しいのでしょう。「わたし」には分からないけれど、「知っている」人が少なくとも一人はいる。そう信じたい。
 ことの是非はともかく、こうした構造を簡単に変えることはできないでしょうし、少なくともあと数百年は、わたしたちのほとんどは誰かが知っていると信じたい人々であるでしょう。
 もちろん、「知っている」者が本当にいるかはわかりません。すべてを「知っている」者、究極的な参照項というのはわたしたちの世の中には実現不可能です。だから、すべてを「知っている」者を宙吊りとし、直接に接近不可能なものとすることで、かつての社会は成り立っていました。それは宗教的な社会ともいえますが、もとより社会そのものが宗教的なものです。
 わたしたちの社会は、そうした体制から別の「宗教」へと移行した後のものです。そこでは「知っている」者は永遠の漸近線の向こうに退けられ、その此方側では広義の「科学」、つまり常に何かが「分からない」者たちが動き続けます。
 本当のところ、こうした体制であっても尚、永遠の彼方には「知っている」者がいるのです。そこへの強い信があってこそ、成り立つ構造なのです。
 しかし「知っている」者は余りに遠くなりすぎました。遠くなった結果、手前にいる「分からない」者が過剰な権威を帯びて、必要以上の仕事を押し付けられることになります。
 そしてそこからもこぼれた人たちの一部は、手近なスピリチュアリズムや、ささやかな「正しさ」を与えてくれる何にでもしがみつこうとします。

 結論として、何をどうしようというものもありません。
 わたしたちは「正しさ」を必要としています。ただ、「正しさ」を十全に与えてくれる権威がないからといって、「カルト的でない形で正しさを与えるシステムを作ろう」などと言って、上手いこと世の中変えられるとも到底思えません。少なくとも、わたしはそうした作為を全く信じていません。
 わたしが信じているのは、本当に「知っている」者です。
 結局のところ、「正しさ」を最後に与えられるとしたら、やはり本当に「知っている」者だけであり、それが与えられる世を導けるのも、「知っている」者だけです。

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする