最貧困男子、『ギャングース』、止むにやまれなさの倫理

 匿名記事で、こういうものがありました。

なぜ「最貧困少年少女」は救いにくいのか

 最貧困「男子」について語っているもので、困窮状態にある少女が性風俗などの「被害者」にされる傾向がある一方、同様の少年は犯罪組織などに取り込まれ、オレオレ詐欺などの「加害者」にされることがままある、ということです。
 風俗産業などで搾取される少女に対しては、貧困家庭で育たなかった人々でもシンパシーを抱きやすいのに対し、後者の少年らについては、なかなかそういう感情が向けられにくいです。相対してみれば、むしろこちらの生活を脅かす存在となりうるわけですから、自然なことです。
 また、こうした少年ら自体、「一般人」の大人が救いの手を差し伸べることを「上から目線」と感じ、嫌います。一方、同じような生い立ちである「裏社会」の先輩にはなつき、尊敬し従うこともあります(これは伝統的なヤクザ社会がやってきたことです)。さらに、もし「一般人」がこのような活動に携わるなら、「裏社会」の産業構造にとっては敵対的となるわけで(この産業の再生産を阻害する)、リスクばかり多く実りが少ない、とも言えます。

 おおよそこのような内容がこの記事にはあるのですが、最近よく考えていたことが手短にまとめられていて、大変良い文章でした。
 ちなみに、この記事を書かれた方は、『最貧困女子』で注目を集める鈴木大介氏の著作に学んだところがあるようですが(多分『家のない少年たち』)、この鈴木氏が「ストーリー共同制作」としてクレジットされている『ギャングース』というマンガがあります。「タタキ屋」と呼ばれる、(警察に行けない)犯罪組織のみを狙う窃盗団の少年らを主人公としたもので、綿密な取材に基づいた異様にリアルな犯罪描写で注目されている作品です。オレオレ詐欺や悪徳リフォームのような、高齢者を狙う犯罪の手口も詳しく描かれています。ページの余白には士郎正宗もびっくりな細かい注が書き込まれていて、大変読み応えがあります。

4063872467 ギャングース(1) (モーニング KC)
肥谷 圭介 鈴木 大介
講談社 2013-08-23

 この『ギャングース』、鈴木氏自身も仰っていますが、表テーマとして「犯罪もの(防犯もの)」があり、娯楽作品として楽しめる活劇がある一方、裏テーマとして「子供の貧困」があり、これが通奏低音のように響いています。劇中に登場する少年たち、元少年たちは、何せほとんど犯罪者ですから「悪い人」なのですが、一様に虐待や貧困、ニグレクトなどの悲惨な過去を背負っています。住民票もない状態から這い上がるため、唯一の活路として裏社会を生きているのです。
 また、劇中の登場人物らによっても語られていることですが、オレオレ詐欺などの高齢者を狙う犯罪は、彼らにとってはある意味「再分配」として機能しています。格差の広がり所得の再分配が不十分な状況で、彼らは強制的に富を還流させており、更に言えば、地元の人間関係を非常に重視する彼らは、そこで得た富や権力を地元の後輩にも分配しようとします。
 しかも、オレオレ詐欺や未公開株詐欺のような犯罪は、貧しい者から更に絞り取る貧困ビジネス、ヤミ金のようなものとは違います。持っている者から、何とかパッと差し出せるだけのお金をとっているのです。オレオレ詐欺だって、本当にお金がなければ払いたくても払えません。5000万の資産を持つ者から500万を奪っても死にはしませんが、生活保護の20万を取り上げられたら即路頭に迷う人々もいます。そういう意味では、彼らはそれを「マシな犯罪」だと考えているのです。
 マンガとしての『ギャングース』は、ツカミの部分では犯罪(防犯)豆知識や個性的なキャラクター、わくわくするストーリーで引っ張っていくのですが、登場人物らの生い立ちや背景が描かれるに連れ、「悪いヤツは悪いヤツなりに止むにやまれない」ことが抉出されていきます。特に現時点での最新刊である七巻では、ストーリー上では主人公らの「敵」であった人々の「止むにやまれなさ」が描かれ、展開的にも非常に胸を打たれるものでした。
 昔のヤクザ映画など、犯罪組織を美化した作品を警戒・卑下する向きはありますし、実際、フィクションの中のような綺麗な世界でないのは間違いないと思いますが、一方で伝統的なヤクザ社会が、「不良少年」らにとっての擬似家族的な機能を果たしてきた現実もあります。今、こうしたヤクザ社会を舞台にしたフィクションは流行らなくなりましたが、『ギャングース』は、かつての昭和ヤクザものが時に見せていたような任侠的一面の真理が現れた、稀有な作品だと思います。
 ついでと言っては失礼ですが、個人的には、インパクトのある独特の絵柄も大好きです。性的な過剰さのない活劇的で美しい絵だと思います。イケメンのことを「二枚目」、面白いキャラを「三枚目」と言いますが、これはかつての歌舞伎の看板から来た言葉で、「一枚目」は「女などには見向きもしない、男の世界を生きる漢」だった、と聞いたことがあります。そういう意味では「一枚目」な絵柄です。

 もちろん、だからと言って、こうした少年たちを単純に「可哀想」などとは言えませんし、また彼ら自身が「可哀想」などと憐れまれるのを自分に許さないでしょう。そして実際に相対して見れば、「恐ろしい不良」「怖い犯罪者」であって、到底そんな感情の抱けるような人々ではないでしょうし、また彼らも抱かれたくないでしょう。
 わたし自身を含め、こんな文章をわざわざ読んで下さる人々の多くも、彼らとは違う生き方をしてきた人々で、例え彼らに一定のシンパシーを抱いて近づこうとしたところで、向こうから拒絶を食らうタイプの人間ではないかと思います。
 世の中全体のことを考えるのだとしたら、彼らのような少年を少しでも減らしていくこと、防止や救済のチャンネルを拡充していくことは、勿論重要です。彼らが「強制的」に行っている再分配を、事前に公正に行っていくだけでも、大きな抑止効果をもたらせるでしょう。
 しかしわたしたちのほとんどは、「世の中全体のこと」を考えて生きている訳ではありません。そうしたことも少しは考えるでしょうが、まず何より自分と身の回りのことが第一です。逆に、それを第一に考えられない人は、余程地に足の付いていない浮世離れした人か、自分のことすらままならない人間です(ある種の活動家などには時々こういう人がいますが……)。
 そして「自分と身の回り」のことを考えるなら、依然として多くの場合、「彼ら」は「わたしたち」にとって危険な存在で、排除とまで言わないにせよ、近づかれないように防御しなければならない関係にあります。
 以前、「貧者の核兵器」、暴力の公平性、死に向かう倫理という記事で、正にこういう関係について書きました。テロやゲリラ的闘争手段や「貧者の核兵器」を「卑劣な悪」のように描くのは、あくまで「持てる側」の方便であるけれど、一方でわたしたちの多くが「持てる側」にいる以上、善悪ではなく単なる功利として、「卑劣な悪」の陣営を叩くのはある意味筋が通っている、ということです。ただ、別にそれは正義ではないし、正義と喧伝するのは、単に自分と大衆の精神衛生上の問題でしかありません。「ちゃんと人殺しの顔をしろ」というのが、最後の倫理なのではないかと、わたしは考えています。
 「人殺しの顔をする」のは気分の良くないことですし、出来れば手を汚したくない、手を汚していても汚れていないフリをしたい訳ですが、ぎりぎり出来る範囲で「人殺しの顔をする」ことが強さだと思いますし、正しいということは強いということです。何かが弱いということから、多くの不幸が生み出されてきます。そうした強さを求めて踏ん張るくらいしていかないと、もう最後の一線もなし崩しになるのでは、というのが自分の倫理です。人殺しの顔をしたくないなら、人殺しをしなければ良いのですし、それを選べるならその方がもっと良い訳ですが、時には選ぶこともままならないのが普通の人間の人生でしょう。

 上の貧困少年の記事や『ギャングース』に描かれているのは、日本の「不良」の話ですが、「死に向かう倫理」の記事で想定していたのは、いわゆる先進諸国から「テロリスト」のように呼ばれている人々です。わたしは不良でもテロリストでもなく、むしろ彼らから奪われ得る立場なので、彼らと敵対しますが、それは別に、わたしが正義だからではありません。
 わたしたちはそうやって戦って、手を汚して生きているのです。
 だから、出来ることがあるとすれば、もし可能ならなるべく手を汚さない、そして汚した時には汚れた手を掲げて、こうした世の理のすべてを司る者に対してこの身を捧げ、その一部であることを受け入れるしかない、と思っています。
 最後のところは、わたしの個人的な信仰になってしまいますが、それを持ち出さないでも、「止むにやまれなさ」に対してゴメンナサイ、アリガトウと言うのは非常にプリミティヴな倫理ですし、それがなくなって何が人生か、と信じています。

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