意図を認める、「本質的には」良いものとする

 誰しも人に認めて欲しいという気持ちのいくらかは持っているものです。「承認欲求」等といった形で取り上げられるのもその一つです。
 「認められる」ことにも色々な要素があるでしょう。大抵の場合は、能力とか人としての価値を「認められる」といったことがイメージされるでしょう。しかし、もう少し考えられても良いのではないかと思うことに、「意図を認められたい」というものがあります。
 尤も、子供の教育のような場面では、「結果はともかくとしてそこにまで至った努力を評価してあげる」ことの意義はしばしば取り上げられています。このように「努力」と言っても良いのかもしれませんが、本当のところ、もっと煮詰めて「意図」とか「やる気」と言ってしまった方がより正確ではないでしょうか。「努力」や「頑張り」でも結構なのですが、これらは「成果」と同じく、基本的には外面に表出されることで評価されるものです。「いや、怠けているように見えるけれど頑張っているんだよ!」というような時、その人が認めて欲しいのは外からは伺いしれない「気持ち」とか「やる気」のことです。
 当然ながら、やる気があったり意図が良くても、結果が悪ければ世の中的には何の役にも立ちません。納期に間に合わず製品も欠陥だらけだったけど、やる気のある良い人だからニコニコお金は払います、というお客さんはまずいません。別に、そこを改めて「意図を評価してお金を払うべき!」などと主張しているのでは「全く」ありません。
 どういうことかと言えば、成果や結果に対する評価と、意図や気持ちに対する評価を、別々に持つ方が良い、ということです。二本立てで評価するのです。
 そんなことは伝統的には普通に行われていて、「お気持ちはありがたいのですが」といった社交辞令などが典型です。本当のところ、気持ちだってロクなもんじゃないかもしれませんし、そもそも重要なことに、気持ちとか意図そのものは何せ「内面」ですから外から伺い知ることなど究極的には不可能なのですが、とりあえず「お気持ちはありがたい」と言っておくのです。分かりもしない相手の気持ちを勝手に「良いもの」と決めつけて、「あなたの意図が清いのは分かっています(でも要りません、この製品はクソです)」と言うのです。
 そういった振る舞いが礼節としてコード化されているのは、そこにそれなりの効能があるからです。

 人は成果よりも、気持ちとか意図を認めて欲しいのです。
 成果や結果を認めてもらえれば、それはもちろん最高なのですが、そんなものはそれこそ他人が決めるもので、どう評価されるかは相手次第です。当たり前です。それはそれで、仕事でも家庭を含む教育現場でも、シビアに評価しなければならないでしょう。そうでなければ、本人のためにも周囲のためにもなりません。
 しかしそれとは別に、本当のところ知りようもない「内面」を良きものとして評価しておくのです。そうすることで、不思議なことに、多くの人が成果に対してもポジティヴに向き合うことができます。
 「内面」の意図や気持ちまで含めて全否定してしまうと、余程打たれ強い人でない限り、人は段々と歪んできて、気持ちも本当にネガティヴになり、成果も当然上がりません。逆恨みをかってひどい目に合わされるかもしれませんし、トチ狂って通り魔殺人でもされたらエライ騒ぎです。
 しかし、成果がボロボロで、その通りにボロボロに評価されたとしても、「君が良かれと思ってやったことは分かっている」「気持ちはありがたい」と言っておくことで、その人は芯のところを否定されずに済みますし、うまくすれば再起して成果を出してくれるかもしれませんし、逆恨みを買うこともありません。そして重要なことに、成果と別に気持ちや意図を評価したところで、何も損はしません。タダです。成果はちゃんと否定している訳ですから。

 以前にシャーリーズ・セロン主演の『モンスター』という映画のことを取り上げました1。レズビアンの売春婦が、パートナーと生きるために、客にとった男を次々と殺していってしまう話です。この女は何せ連続殺人鬼ですから、普通に考えて「良い人」ではありません。でも、映画の終盤の方で、彼女の行いがパートナーにもバレて、泣きじゃくりながらこんな風に言う場面があります。「わたしは……わたしは……良い人間なんだ……」。
 こう言っている時、彼女は自分が大罪を犯してしまったことを分かっています。それが「良い」ことではない、ということを知っているのです。だから言うのです。「(それでも)わたしは良い人間なんだ」。
 つまり、やったことは悪いことだし、弁解の余地はないけれど、「本質的には」良い人間だと認めて欲しいのです。
 この「本質的には」というのは「内面」と一緒で、要するに何のことなのかはよく分かりません。「万引きはするし仕事はサボるし嘘はつくし浮気はするしトイレに行っても手も洗わないけれど、本質的には良い」というのは、よく考えるとなんだか意味不明です。普通に考えて、そいういう人は「悪い人間」です。
 ですから、実のところ、「本質的には」とか「内面」とか「意図」とか「気持ち」などというものは、ほとんど零度のもので、何も言っていないに等しいのです。
 でも、人はまさにその何でもない零度のところを認めて欲しいし、そこさえ認めて貰えれば「あぁ良かった、ごめんなさい、もうしません、これからは頑張ります」という気持ちにもなれるのです。いや、なれないこともありますし、仮に気持ちが良くなっても結局グダグダでダメなまま、ということもよくあるのですが、それでも最後の一線を越えるのを防ぐことが出来ます。そして繰り返しますが、ここを認めるのはタダです。何せ事実上実体のないものを認めるのですから、認めようが認めまいが、本人以外にとっては痛くも痒くもないのです。

 多くの人は、「本質的には」良いものと認めて欲しいと思っているのではないでしょうか。
 もっと言ってしまえば、「良い」というより「善い」ものです。つまり功利ではなく価値判断として、「在って許されるもの」として承認されたいのです。
 その「本質」は、何度も言うように、実際的には零度のもので、何を言っているのやらよく分からないものです。でもいいのです。内実としてスカスカであったとしても、「君は本質的には良い人間だ」と言っておけば良いのです。
 こう言ってもらえるだけで、極端な話、「本質的に悪い人間」すら「善く」なることが(時々)あるくらいです。

 神様を信じている人間としては、信仰の一つの働きとして、この「本質的には善いですよ」という承認があると考えているのですが、この話だけなら別に神様を持ち出さないでも機能します。
 「お気持ちはありがたいのですが」で十分です。

  1. 小っさなムスリムに話しかける []
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