それを言った時「自分が誰であったか」

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 大分以前に知人と話していた時、人間関係や「やっていること」が繋がっていかないとつまらない、という話をされました。当時わたしは、つながる方が面白い!と無邪気に考えていたので、考えもなしに同意していました。
 しかし、それを「つまらない」という彼がなぜ分断させているかと言えば、分断しておいた方が良いだけの理由もあった筈です。メリット・デメリットを鑑みて、安全なラインをとっていた、と考えた方が良いでしょう。
 人間、実社会であっても「様々な顔」を持つのが普通ですが、そうした顔同士をつなげること、分けておくことには、良いところと悪いところがあります。
 ネット上になると、更にそれが顕著になります。複数のキャラや媒体(ブログやSNSなど)を使い分けているケースは非常に多いでしょうし、それら相互をつなげているか、分けておくか、それも色々でしょう。闇雲につなげることが賢いわけはありませんし、ネットでは特に分けておいた方が安全な場合が多いかと思います。
 わたしはその後、段々心が汚れて参りましたので(笑)、つなげるより分けて安全策をとるようになっていったのですが、これはこれで、単に「つまらない」以外にも問題はあります。
 単純に、誰に何を言ったかよく分からなくなるのです。
 嘘をつきまくっている人が、誰にどんな嘘をついたか覚えていられなくなるような感じです。
 「あれ、この人にはこのブログのことを言ったかな、前にも言っていたら今更知らせるのは馬鹿みたいだし、知らせたことを忘れているなんて失礼だな。自意識過剰だと思われるかもしれない。でも知らせてなければ、このまま知らせないとなんとなく不義理な感じもするな」などと考えることが時々あります。
 「相手が誰であったか」を覚えておかないといけないのは普通ですが、それを言った時「自分が誰であったか」も覚えておかないといけません。
 無邪気につなげることから、安全策で分けることを経て、最近またつなげる欲が少し出てきています。こういうのは周期的に振れるもののようです。しかし、もうつなげていたか、これからつなげるのか、それが分からないのが問題です。



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