公正世界信念、「別の誰かが知っている」ということ

 こんな文章がありました。
地震と津波:人々は,どのような場合に被災者を責めるようになる? – 東日本大震災を乗り越えるために:社会心理学からの提言と情報
 短いので全文引用させて頂きます。

災害時には、不謹慎ともとれるジョークを発してしまい、あとで謝罪に追われる人々が必ずと言っていいほど出てきます。こうした人々の行動を説明するのは,「公正世界信念(the belief in a just world)」と呼ばれる社会心理学の理論です。この理論の基本的な考え方は,「世界は公正にできており,努力した者は報われ,努力しない者は報われない」ということです。つまり,「良いことをした人には良いことが,悪いことをした人には悪いことが起こる」という信念です。
この公正世界信念は,思いやりのある行動を促進するでしょう。なぜなら,(例えば)他者に良くすることで,自分がほめられることが期待できるからです。しかし,今回の地震や津波が起きた際には,逆に,公正世界信念が,被災者を不公正なやり方で責めることにつながってしまう可能性があります。なぜなら、ある人に悪いことが起こったのは,その人が悪い人だからである、との説明がなされることになるからです。
また、こうした公正世界信念は、忙しくて余裕のないときに行われやすくなります。Journal of Experimental Social Psychology誌に掲載された実験では、他者の起こした問題の責任について判断する際、関係のない情報について考えていると,特に公正世界信念に基づく判断を行いやすくなることがわかっています。私たちは,日常生活を送るのに忙しかったり,たくさんの情報に触れていたり,あるいは原発のことを心配することで,余裕が少なくなると考えられます。こうした状況では,公正世界信念に基づいて被災者を責めてしまう,という可能性が高まるでしょう。
このことから学ぶべきことは,世界が公正だという期待のもとに,他者を援助しないということです。ユニセフや赤十字,国境なき医師団に,寄付をする際も,そうすることでほめられたいと思うのではなく,被災者は深刻な状況にあって,緊急支援が必要で,被災者は被害を受けて当然ではない,と思うようにしましょう。

 ものすごく大事なことが言われていると思います。
 わたしは神様を信じていますが、神様を信じるというのは、一般的には、ここで言う「公正世界信念」に沿うもののようなイメージがあります。実際、そのように素朴に考えている人も大勢いらっしゃいますし、またそのお陰でその人達が「より良く」振る舞えているという側面もあるでしょう。
 一方で、こうした考えは「悪いことが起こったのはその人が悪い人だからである」という発想につながりかねない、危ういものでもあります。

 わたし自身は、神様というのはそういうものでは全然ない、と信じています。少なくとも、そのように考えるよう、努めています。
 正確に言えば、「公正さ」というのはあります。しかしそれは、神様にとっての「公正さ」なので、わたしたちには(部分的にしか)理解できません。そのため、わたしたちの目にはむしろ不条理と映る場合の方が多いのです。
 理解もできない「公正さ」など意味不明ではないか、と思われるでしょうが、その通りです。全く筋の通っていないものを「公正」というのは、端的に意味が通りません。だから単に信じているのです。
 以前に「ヘリに吊るされているサイ」のことを書きました。

 野生動物を扱ったテレビドキュメンタリーで、サイを助けるためにヘリコプターで吊るして運ぶ、という場面を見たことがあります。
 ヘリからブラーンとぶら下げられたサイの心境としては、言語を絶する恐怖だったことでしょう。わたしなら絶対イヤです。
 人生には、サイがヘリからぶら下げられるくらい不条理で意味不明な恐れや苦しみ、不安というのが時としてあります。
 そういう時は、「きっと動物レスキューの人がわたしを助けるためにやっているんだ、きっと何かの意味があって、今は分からなくても、死んだら質問できるんだ」と考えるようにしています。
羊は迷うのか

 神様の「公正さ」というのは、サイにとってのヘリコプターのようなもので、わたしには分かりません。むしろ拷問のように映ることすらあります。
 わたしには神様の「公正さ」を理解することは出来ません。ですから、わたしに分かる範囲での「公正さ」に対しせいぜい忠実にやって、後のことは「煮るなり焼くなり好きにして!」と考えています(サイだってそうやって生きていると思います)。

 整理すると、
①世界には理などない
②世界には理があり、それをわたしは知っている
③世界には理があるが、それをわたしは知らない。しかし別の誰かが知っている
④世界には理があるが、それをわたしは知らない。誰も知らない
 という立場があり得ます。
 ここで言っているのは③という立場です。
 ①は、「世界はメチャクチャで、筋もヘッタクレもない、良いことなんかしても何にもならん」というもので、それもひとつの考えですし、実際、世界はメチャクチャですから、そういう人には結構共感します。
 しかしわたしは、世界は確かにメチャクチャで筋もヘッタクレもないけれど、それはわたしが知らないからそう見えるだけだ、と思っています。根拠はありません。
 そしてその代わりというわけではありませんが、わたしは知らないけれど、神様は知っているのだろう、と思っています。これも根拠はありません。
 ですから、わたし自身の行動については、わたし自身が知りうる乏しい「公正さ」に基いて何とかやっていきますが、それも間違っている可能性は大いにあって、最終的に何が正しいのかなどは知りません。逆に、わたし自身に世界の不条理が襲ってきても、多分それは、神様的にはなにか筋が通っているのだろう、と思っています。できればやめて欲しいですし、日々「やめてください」と祈っていますが、神様は神様の事情で動くもので、わたしのことなんてメチャクチャ優先順位が低い筈ですから、それはそれで仕方がないと思っています。

 上で「公正世界信念」と呼ばれており、神様を信じている人のうち少なからぬ人々がとっている態度は、わたしから見ると②のように感じられます。これは神様のことを「わかる」と言ってしまう態度で、不遜というか、あまり敬虔な姿勢ではないように思います。
 ちなみに、③と④というのは、わたしたちの知性から見ると見分けがつかないので、実質的には一緒のことになるかと思います。ですから、そこで敢えて③を採るのを信仰というのでしょう。

 あるムスリムと話していた時、「公正さ」が期待されるにも関わらず世界は不公正であり、だから「死後」という考えがある、と聞かされました。この世とあの世を足せば「公正」な筈で、この世でひどい目にあっているのは、あの世で良いことがあるからだ、という考えです。
 こういう考えで心の安らぎを得られる人もいらっしゃると思うので、別に否定はしないのですが、わたしとしては今ひとつ釈然としません。
 なぜなら、「死後」さえ持ってくれば「公正さ」を理解できる、と考えられているからです。
 そんなものを勘定に入れようが入れまいが、神様の理というのは全然理解を超えているのではないのでしょうか。
 まぁ、実際上どうなのか、というのは、当然ながらわたしに分かるわけがないのですが、わたし自身は、もう全然無理、まったく分からない、メチャクチャ、だと考えています。
 もう全然分からないので、目の前の小さいことに一つ一つパッパッと反応するだけです。見返りがあるかどうかは知りません。
 そういうことを繰り返して、天国に行くのか地獄に行くのか、それも神様がお決めになることなので、わたしには分かりません。分からないので、ただ祈っているのです。

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