ヒシャーム・アル=ガッフの朗読

 ヒシャーム・アル=ガッフ(هشام الجخ)という詩人の動画です。

 アラブでは詩人の地位が高く、今でも大変な人気を集める人たちがいます。詩人というと、日本語の文脈だと、浮世離れした芸術家的なイメージがありますが、動画をご覧頂ければ分かる通り、パフォーマー的な側面が強いです。
 韻文ですので、翻訳してしまうと訳の分からない箇所が沢山ありますし、魅力半減なのですが、試しに訳してみます。わたし自身、今ひとつよく分かっていないところもあるので、参考程度に見てやって下さい。

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ビザ

アッラーよ、あなたの名において称える
他はなにも恐れない
出会うべき運命のあることを認める

子供の頃より教えられた
この血、この系譜は尊いと
学校では何度も歌った
「アラブ諸国は我が祖国、
すべてのアラブは我が兄弟」
絵を描いた、困難に向かい
風を切るアラブの
あなたがたが素朴な子供の
気持ちを煽った
英雄譚に空想を巡らせた
曰く、我らが国は地の果てより果てまで続き、
我らが闘いはアル=アクサー・モスクのため
我らが敵はシオニスト、尻尾の生えた悪魔
我らが軍隊は怒涛の如し

大きくなったら海を渡り
リビヤのバーレーンを越え
シリアのバグダッドでなつめやしを集め
モーリタニアからスーダンへ
モガディシュからレバノンへ旅する
そんな気持ちを胸に秘めていた
アラブ諸国は我が祖国
すべてのアラブは我が兄弟

大きくなってみると
海を渡るビザなんて取れない
海なんか渡れない
窓口でスタンプも押されないパスポート
国境を越えられない
大きくなってみれば
海を渡ったことも国境を越えたこともない
大きくなってみれば
大きくなっていない子がここに

僕らの子供時代が僕らと戦っている
あなたたちの教えたことじゃないか、アラブの指導者らよ
僕らの子供時代が僕らを苛む
あなたたちの教えたことじゃないか、アラブの指導者らよ
あなたたちの学校で歌わせたんじゃないか
あなたちがこの考えを教えた
教えたのはあなたたちだろう
うっかり眠ったら愚かな羊がずる賢い狐に食べられてしまうと
教えたのはあなたたちだろう
一本の小枝は弱いが束になれば強いと
なぜ愚かなる分断が僕らを統べているのか
教えたのはあなたたちだろう
アッラーの元に一致し耐えるのだと

なぜ太陽をもろもろの旗で隠してしまうのか
我らが血をバラバラにし家畜のようにするのか
心の中の子供がまだあなたたちと戦っている
あなたがたがバラバラにしたのだ、滅びるがいい

僕はアラブだ、恥じることはない
オマーンの血をひき緑のチュニジアに生まれた
母の身ごもる前より千年を生きる
僕はアラブだ、バグダッドには我がナツメヤシが
スーダンには我が血脈が
僕はエジプト人、モーリタニア人、ジブチ人、アンマン人
キリスト教徒、スンナ派、シーア派、クルド人、ドゥーズ派、アラウィー派
指導者らが去れば名前も覚えていない
あなたがたが僕らをバラバラにして、皆がグループになってしまった
皆がグループに分かれてしまった
僕らの考えを嘘と捏造で満たした
アッラーにより集い、FIFAにより離反するのか

僕らは信仰を離れ
オウサとハズラジュに戻った1
無明に身を任せ
ただ愚昧へと
アラブの指導者らよ、我が胸の子供はあなたたちに抗っている
あなたたちを断罪している
アラブの民は一つだと宣言している
分断されたスーダンではない
占領されたゴランではない
孤独に傷を癒やす、破壊されたレバノンではない
アラビア湾の真珠を集め、スーダンを耕し、
モロッコに小麦を蒔き、パレスチナで油を絞り、
ソマリアの民が永久に飲む

あなたたちのアバーヤから民衆へ
あなたちでなく、民衆
あたたちではなく、民衆こそが
あなたちの取り巻きたちよ、聞いているか
獄中のものたちの詩を聞いているか
民衆こそが統べる、あなたちではなく、あなたちのことは恐れない
あなたちではなく、イスラームが
それを商売にするのをよせ2
恐れよ、この民衆が辛抱強いことを
病んだラクダは乳も出さず子も産まないことを

僕はまだここにいて、僕の心もここにある
僕らは悪を飲み干し
無知を注がれた
注ぐのにも飲むのにも飽き飽きだ

あなたたちに警告する
あなたがたの騒乱にも関わらず僕らはまだいる
それは通じ合った民衆
あなたたちの糸がほつれても
アッラーの糸はほつれない

僕は大きくなり子供でなくなったけれど
僕の筆と絵の具はまだ描いている
痩せているけれど威厳あるアラブを
麗しい声はまだ響く
「アラブ諸国は我が祖国、
すべてのアラブは我が兄弟」

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 「一つのアラブ」というファンタジーを掲げながら、実際には内輪もめばかりしているアラブ諸国を批判した内容です。この詩の中で、学校で教えられる唱歌が出てきますが、エジプト人の知人によると、実際にこういう歌を教えられたりするそうです。洋の東西を問わず、実際にはありもしない理想に限って、大きな声で歌われるものです。
 この詩は、それでもなお「一つのアラブ」という理想を守りたいものだと思いますが、遠い国から眺めさせていただくと、そもそも「一つのアラブ」などというものが歴史上存在したことなどがあるのか、という疑念があります。
 もちろん、生物学的?な意味で「アラブ系の人たち」というのはいるし、また「一つのアラビア語(フスハー)」という伝統はまぐれもなく存在するのですが、nationとしての「アラブ」というのは、むしろ近代の仮構なのではないでしょうか。おそらくは、オスマン帝国を解体する過程でイギリス人が持ち込んで炊きつけただけの思想ではないかと思います。
 「一つのアラビア語(フスハー)」が守られたのも、アラブという民族意識からではなく、むしろクルアーンの言語としてのフスハー、という基底があったからでしょう。実際、アラビア語といっても、口語アラビア語は地域によって非常に隔たりがあり、ほとんど別の言語のようになっています。
 nationの概念が世界中にばらまかれた結果、色々とややこしいことを引き起こし続けているわけですが、アラブの場合、nation自体は分断の形では働かず、むしろnationより細かい単位でバラバラに分断されてしまっているところが興味深いです(と言ったら怒られるかもしれませんが)。

  1. オウサとハズラジュはイスラーム以前の部族名。イスラームではジャーヒリーヤ=無明、無知の時代からイスラームの時代へと移った、という世界観があるが、ここでは、イスラーム以前の無知へと戻った、というニュアンスを入れている []
  2. アラブの指導者や有力者がイスラームの名のもとに都合の良いことを言うのを批判している []
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