アレもダメ、コレもダメ、でも

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 「アレもダメ、コレもダメ、でもコレなら大丈夫!」という種類の言説は大抵眉唾ものです。健康食品の売り文句などによくあります。
 カルト宗教の類も、こうした発想をします。「政府もダメ、マスコミもダメ、尊師の言葉だけが真実だ」ということです。
 カルトがこうした発想をするのは、「選ばないことでは無宗教にはなれない」で書いた言い方をするなら「デフォルト無宗教」というファンタジーに絡め取られているからです1。つまり「何も選ばない」状態が初期状態としてあり、そこから宗教A、宗教Bなど(あるいは宗教以外の何か)を「選択」する、という発想です。だから「Aもダメ、Bもダメ、しかしCは良い」という語らいが紡ぎだされるのです。つまり、カルト的なものは、ある種のナイーヴな相対主義と表裏一体となっています。
 この種の相対主義が一切無効ということではなく、むしろ現代的社会を平和裏に成立させるために流通させておくと便利なものでもあります。「色々なオプションがあって個人が自由にそれを選べます」というファンタジーは、誰にでも平易に理解できるし、厄介事が不断に個人の壁を越えてやってくるのを防ぐ効果があるからです。これにより保護されるのは、近代的個人の概念というより、端的に言って権力なのですが、それは別のお話になるので割愛します。
 カルトばかりでなく信仰全般について、こうした「選択制の中で自ら最善を謳う独善的なもの」という捉え方をされる方もいらっしゃいますが、そうした側面を見ると信仰が分からなくなります。信仰を持つ人々の中に、こうした考え方に毒されている人たちがいるのは事実でしょうが、そういう人は単にアホなので相手にしない方がよろしいです。もう少しだけ丁寧に言うなら、近代的な相対主義モデルを逆輸入してしまっているのが間違いの始まりです。このモデルに乗っかっておくことが、現代社会における「他者との共存」のために有益だと勘違いしているのです。
 勘違いというと、「Cだけは良い」の部分のみが間違っているようですが、そういうことではありません。「Cも良いし、Dも良いし、すべてに良いところと悪いところがある(だから個人で自由に選びなさい、後は自己責任でヨロシク)」ということではないのです。これはとても都合の良い言い回しで、実際世の中で広く流通していて、ある程度は乗っからないと生きていけないくらい大事ではあるのですが、それでも最後のところで違うのです。
 こうした言説が厄介なのは、「ダメ」というのはあながち嘘でもないからです。トランス脂肪酸とか日本政府とかが100%ダメだとは思わないですが、多少なりともダメなところがあるのは事実でしょう。それはそうです。大抵のものは多少なりともダメです。
 そうではなく「Aが」「Bが」などと悠長に俯瞰している時点で既にトラップに嵌っているのです。本当のところ、そんな余裕など最初からなく、既に人はAだったりBだったりするのです。少なくとも信仰については、そこから考えないといけません。もうどうしようもなく決定されて、巻き込まれている。さてどうするか。そういう流れで見ないといけません。本当のところ、別に信仰だの宗教だのに限らず、この見方が出来ないとどうにもならないし、ベタな言い方をすれば幸せになりません。抜け出したければ、走りながら銃を撃つのでなくてはなりません。ナイーヴな相対主義というのは、じっくり構えて銃を撃たせようとするものですが、そんな余裕は実は誰にもないし、気がついたらもう走っているし、止まれないのです。
 「アレもダメ、コレもダメ、でもコレなら大丈夫!」を言い換えるなら、「アレもダメ、コレもダメ、全部ダメだ。でも生きろ!」ということです。信仰を内側から考えるなら、あるいは人生というものを内側から考えるなら、こういうことになります。オプション制ではないのですから、どれか一つだけマトモな答えがある訳ではありません。時には選択の余地があって、多少マシなオプションが選べる時もあるかもしれませんが、そんなものはオマケ程度です。少なくとも信仰というものは、外側というものが全然想定できない状況で生まれてきたものだし、生きられるものの筈です。逆に言えば、「コレさえ破ればアンタ破門ね」みたいなことが簡単に言えるようではインチキです。そういうことを言う人は沢山いますが、せいぜい脅し文句です。本気で言っているならただのアホなので相手にしない方が良いです。
 そしてもし、単なる自己責任ファンタジーではない自由というものがあるとしたら、アレもダメ、コレもダメな世の中で「このダメ」を選ぶ自由だけが本物でしょう。

  1. その他、「無自覚な者たちが他人に信仰を押し付ける」「「信仰が無いことにいまさら苦しむ」について」「それはバッタである、アッラーではない」などが関連 []



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