もったいないの傲慢さ

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 少し前に、「漫画の「才」はあるも、世に出ようとしない人たち」というTogetterを見かけました。
 漫画の才能があるのに世に出ない人々を話題にしたものですが、これに対して「もったいない」という人もいれば、「本人の好きなようにしたらいい」という声もありました。
 わたし自身も、「もったいない」という気持ちは抱きますが、この「もったいない」はある意味傲慢です。それは所詮、消費者の立場、しかも大抵の場合は大してお金も落とさない無責任な外野の見方であって、本人にとって「もったいな」くないのなら、どうしようが勝手です。あるいは本人にとっても多少「もったいない」ものだとしても、他と天秤にかけて「割に合わない」と判断するなら、捨てる方がまともな判断です。
 何が言いたいかと言えば、本当に「もったいない」と言えるのは、自ら手を動かし損得きちんと見通している立場だけだ、ということです。
 手を汚さず部分だけ見て「もったいない」と言うのは簡単ですが、そうしたものは、よくよく見てみると「総じて見て捨てる方がまだマシ」なものだったりします。
 ガソリンの特売のために50km運転して燃料を入れに行くようなものです。

 確か武田邦彦氏の著書で、リサイクルを批判するものを読んだ記憶があります。
 これもいわゆるリサイクルすべてを否定するものではないのですが、「リサイクルすればするほど余計にコストがかかるなら、捨てた方がマシ」というお話でした。具体的にどの辺が分水嶺というか、損益分岐点的なものになるのかは、わたしには分かりませんし、まったく別問題ですが、これもまた、無責任な「もったいない」に踊らされるな、ということを示しています。
 氏はそこで、「江戸時代のリサイクル」という話をされていました。江戸時代のリサイクルとは、要するに自分で手を動かして再生品を作ることですが、自分でやっていれば「こりゃ捨てて新しく作った方がマシやわ」というのが直観的に分かりやすいです。そういう全体像を見ないまま、部分だけ見て「もったいない」というのは、節約しているようでかえって無駄遣いしているいことになる、ということです(一部のエコロジストが江戸時代をやたら理想化する語りはナンセンスだと思いますが、ここでの氏の要旨については尤もです)。

 こうした無責任な「もったいない」が醜悪であるのは、単に「より大きな視点から見た合理性」を欠いているからでも、自ら手を動かさない卑劣さゆえだけでもありません。これらと共に、ホメオスタシスの執拗さに絡め取られている、ということが重要です。
 つまり、先日書いた吝嗇の問題とまったく同形です。
 「もったいない」とは吝嗇のことです。
 これらは一見すると合理性に基づいた行動のようですが、実のところ根源的な不安から眼をそらそうとする防衛であり、円環的に時の繰り返される揺籠の夢を絶やさまい、という必死の身振りに過ぎません。
 今日も明日も明後日も同じように平和な日々が繰り返される、というのも、物事の一つの正しい面ですが、同じように繰り返される一日一日がすべてparticularであり、すべては個別的で一である、というのまた真理です。そして後者の真理は、眼を焼きつくす真理であるが故に、わたしたちは直視することが出来ません。これが「不可能なもの」です。
 ですから、太陽に対して多少手をかざすのは真っ当なことですが、目を閉ざし耳を塞ぎ「もったいない」と叫ぶ吝嗇は惨めです。
 もったいないも何も、すべては蕩尽され、ただ時は一方向にだけ流れ、人は必ず死ぬのです。

 当然ながら、一なることも真であれば、揺籠のごとき円環もまた真です。これらはそれぞれ、世界の別の切り出し方に過ぎません。
 ホメオスタシスは再現可能性の世界であり、理性の世界であり、イメージの世界です。その中でできることも沢山あります。その範囲で「もったいない」ことなら節約すればいいでしょう。
 しかし同時に、その円環のすべての往復が、ただ一なるものとして再現不可能に流されていくのもまた、真です。それは不可能な世界であり、理性をもって語ることのできないものです。
 そこで口を閉ざしてしまうのなら、その理性は、やがて理性の及ぶ世界についても語る言葉を失っていくことでしょう。
 不可能なものについてもまた、断言し賭けることのできる覚悟だけが、「もったいない」を振り切り、死を思い切り生きることができるのです。



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