許すということと傷が癒えるということは、別のことだ

 例えば、ある人が転んで、たまたま手に持っていた包丁で友人を刺してしまったとする。
 刺された人は、ワザと刺した訳じゃないと分かっていて、許したとする。
 許したとしても、包丁で刺された傷が治る訳ではない。
 傷が癒えるには時間がかかるし、傷跡が残るかもしれないし、もしかすると治らないかもしれない。

 許すということと傷が癒えるということは、別のことだ。
 許したとしても、刺してしまった事実は消えないし、取り返しがつかない。
 その取り返しのつかなさにおいて、許された者も、たとえ何万回「許す」と言われたところで、解放されることはない。
 時は一方向にしか進まないのだ。
 傷は時が一つであり、すべてが一であることを証すものだ。

 主に許しを乞う、という行為は、この取り返しのつかなさと背中合わせになっている。
 許す者が、一万回「許す」と言っても届かない、傷を負わせた者の傷に、手を伸ばすことだ。
 もちろん、主に許しを乞い、かつ主が許されたとしても、やはり傷が癒えるわけではない。
 これはとても奇妙で、倒錯した行いだ。それゆえに機能する。
 主に許しを乞うことが、人に対して許しを乞うことと決定的に違うのは、いくら許しを乞うても、許されたかどうか分からないことだ。
 実は、人についても、許されたかどうかが分かるわけではない。「許す」と言われても、「本当は」許していないかもしれない。何度言われてもそう問うことはできるし、疑うことはできる。つまり、許しを乞う相手というのは、そういう決定的な手の届かなさの向こうにいる、ということだ。
 人はその手の届かなさをしばしば忘れる。
 シャカリキに頑張れば、手が届くような錯覚を起こす。
 手の届かないものを、鏡に映った己の像のように勘違いする。
 主に許しを乞うことは、この手の届かなさをむき出しにするものだ。
 そして手が届かないからこそ、主は唯一、「本当に」許すことができる。
 許しを乞うものが許し得る者に手が届かないように、許す者もまた、許しを乞う者に手が届かない。本当は、誰も許すことなどできない。「許す」と言えるが故に、常に「本当は」と問い返さえる。永遠に手が届かない。
 主は手が届く。
 なぜなら、単に、手が届く者が主だからだ。
 そのような者にしか傅かない、というのが信仰だ。
 主にひれ伏し許しを乞う、というのは、手の届かなさ、取り返しのつかなさに対して全面的に身を委ね、降伏する、ということだ。
 それはまた、人の前で、己を降伏する者として示す、ということでもある。
 つまり、取り返しのつかなさに対して、まったく無力に、全面的に受け入れる者たることを、証すということだ。

 傷は、依然として癒えない。
 どの道、傷は癒えないのだ。
 だから、ありうる選択肢というのは、癒えない傷を背負い続けるかどうか、ということだ。
 許しを乞う。それはいい。許すのはもっと素晴らしい。
 しかし本当のところ、許すことも許されることも出来はしないし、許しても傷は癒えない。
 実のところ、存在するのは、ただ傷なのだ。
 だから、傷に対してどう振る舞うかだけが、大切なのだ。
 主に許しを乞う。
 返答はない。
 その空虚、終わりのなさ、果てしのなさ、取り返しのつかなさというものと、向き合うこと。
 わたしが、わたし自身の心をいくらでも疑うことができ、その無限に対し、ただ主への恭順によって楔を打つこと。

 過ちを犯せば、許しを乞いたい。
 許しを乞われれば、できるだけ許したい。
 しかしこれに加えて、主に許しを乞うことがなければ、許すこともできないだろう。
 本当のところ、どの道許すことなどできない。この言葉は届かないのだ。
 傷によって、時の一なること、取り返しのつかないこと、世界に引かれた一本の線において、共にひれ伏すことしかできない。
 面を上げよ、とは永遠に言わない者に対して。

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