地球温暖化キャンペーンと罪悪感

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 地球温暖化キャンペーンには、「石油はあと30年でなくなる」キャンペーンの後釜としての役割、つまり原子力政策の一環としての要素があるが、そこにだけ還元できるものではない。
 残りの要素について参照すべきなのは、むしろ「エイズは天罰」的な思想だ。
 地球温暖化でもHIVの問題でも、そこに倫理的なフレームワークがかぶせられ、意味づけがされる。地球温暖化はただの長期的な自然現象で、人間の営為とはほとんど関係ないかもしれないが、あたかも「近代の罪業」への自然の報いであるかのように、読解される。つまり、本当のところ人間的価値体系とは何ら関係のない物質的事象にすぎないものが、価値判断の内部で評価される、という現象だ(もちろん、「本当に」関係がある、という可能性も否定し切ることはできないが)。
 価値判断に飲まれきるほど愚鈍ではなかった人(地球温暖化キャンペーンに疑問を挟めるくらいには知的な人)は、しばしば価値体系の弊害を説く。すっかり飲まれきっている大衆よりはずっと良いが、方向性を間違えているように感じる。
 確かに、価値体系には問題が沢山ある。宗教右派が「エイズは天罰」と叫んでいれば、わたしですら嫌悪感を抱き、宗教そのものへの疑問を感じてしまう。
 地球温暖化キャンペーンであれば、ここで機能している価値体系とは、高度産業資本主義やグローバリズムと、それに対する批判、といったものだろう。
 ここで重要なのは、ある価値体系が存在し、かつその体系の内部において、(しばしば意識化できない)罪悪感が醸成されている、ということだ。
 だから、ある程度頭の働く人なら、そうした価値体系自体を廃棄すれば、(「エイズは天罰」のような)無用な「意味づけ」も排除できるのではないか、と考えるだろう。

 しかし、残念ながら、この方法は十分には機能しない。
 著しい迷妄・迷信の類であれば、一定の排除は可能だろう。しかし、「価値体系なるもの」全般をわたしたちの語らいから消し去ることはできない。
 そこである一つの価値体系を「迷妄」として排除したとしたら、別の価値体系が密かに入り込み、そして非常に重要なことに、この段階で罪悪感が抑圧され、不可視化されてしまう。
 非常にナイーヴな例として、かつての「サヨク」を批判するのに、共産主義国家の失敗を示すような態度がある。確かに多くの共産主義国家が崩壊した。しかし、共産主義によって提示された問題系が、市場経済によって克服されたわけではない。そこで批判の対象にされてきたものは、不可視化され、なおかつ意識化されない「罪悪感」として、市場経済それ自体の内部に入り込む。
 このような見えない罪悪感が、地球温暖化キャンペーンを叫ばせているのだ。
 このキャンペーンを声高に主張するのは、「反産業」的思想の持ち主ではない。むしろ高度産業資本主義をそれなりに肯定し、「それなりにやっている」人たちだ。市場経済の恩恵がなければ、日々の生活もままならない、つまり普通か中流よりやや上のサラリーマンのような人たちなのだ。彼らは手を汚し恩恵を受けているからこそ、意識化できない罪悪感を抱え、それを何らかの批判意識という形で表出する。

 ことわっておくが、大抵の場合、彼らは「悪い」人たちではない。むしろ「良い」人だからこそ、ある種の倫理観に基づき、現状への危惧を訴えているのだ。
 これに対し、価値体系の排除を訴えたところで、また別の価値体系が乗っ取りを企てるだけになる。根底にあるのは「罪悪感」なのだ。
 罪悪感が地球温暖化キャンペーンや「エイズや天罰」といった「原理主義的」方向へと暴走してしまったのは、価値体系の害によるものではなく、むしろ古典的な価値体系が排除されてしまったからだ。古い価値体系には、罪の贖い方がキチンと書き込まれている。「罪はないんだ! 自由なんだ!」と威勢よく喝破してしまったが故に、拭っても拭いきれない罪に対し、贖い方がわからなくなってしまったのである。
 だから、価値体系の排除ではダメだ。
 むしろ、価値判断から自由になれない、ということをもう一度認める必要がある。
 罪は「本当に」あるのだ。ただし、その罪はヒステリックな「償い」によって埋め合わされるのではない。アメリカの成功者が引退してボランティア活動に精を出すような、貧相な方法で収支合わせがなされるのでもない。
 多分、罪はあり、なおかつ既に赦されている。だから、必要なのは償いではなく、感謝だ。

 感謝が足りない。
 圧倒的な贈与が足りない。
 イスラームでは原罪概念が前景化していないが(しかしとりわけシーア派の思想などには、キリスト教における原罪に似た要素が見られると思う)、感謝と贈与は過剰なまでに「明文化」されている。
 見えない罪に悩まされ、ヒステリックな償いに走るなら、素直に感謝すれば良いのだ。
 その感謝は、具体的な形に見えるものが良い。わたしたちは大抵、自分で思っているよりずっと「イマジネール」な存在なので、地に伏し祈りを捧げ、貧者に施しを与えたりする方が、ややこしい抽象的感謝より遥かに簡単に心が満たされる。
 そうした行為が、どれほどの満足感をもたらすか、多くの現代人が忘れてしまっている。お祈りはもちろん、神様のためだが、それが口惜しいなら(笑)、ただ単に自分の満足のためだと思ってみれば良い。近代的個人には、その方が入り口として分かりやすい。

 重ねて言う。
 価値体系の弊害を説くだけでは不十分だ。
 むしろ体系の内部で、行き場を失った罪のエネルギーに、捌け口を与えなければならない。
 罪悪感が暗黙的になってしまったことが、エスカレーションの根本原因だ。罪悪感があるなら、いっそ罪を認め、赦しに感謝しなければならない。
 地に伏し祈りを捧げ、必要な人に必要な助けを差し伸べることほど、素晴らしい「ストレス解消法」はない。

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