証拠と確信

 『原理主義の終焉か―ポスト・イスラーム主義論』のエントリにムイッズ・マスウードの動画を貼りました。これは仲々面白いテーマで話をしているのですが、言っている内容に同意できるかというと、微妙です。尤も、この手の説教師の話で丸々頷けるものというのもないので、わたしの方が変なのでしょうけれど。
 この番組はرحلة اليقينというタイトルで、「確信の旅」「信念の旅」のような意味なのですが、信念はともかく、確信というのは非常に危ういものです。結論を先取りすれば、確信の代わりに信念を置くべきだと考えているので、اليقينをどう取るかによるわけですが、どちらかというと「確信」のような、ハッキリ明らかに分かっている感じで言っているのでしょう。
 この確信を巡って、「証拠」という話が登場します。これは別にムイッズの話に限ったことではなく、証拠だの証明だのといった話は信仰についてまわります。ここでよく批判している例では、現代科学の成果をもって「この発見はクルアーンで予言されている」といった類の、似非科学的なものも、これに含まれます。
 何度も書いている通り、経験主義科学とは反証可能性が明示されている、つまり今後覆されるかもしれない可能性が開かれている限りにおいて益があり、進歩するものですから、そもそも信仰とは初めからすれ違っています。一万歩譲ってその発見がクルアーンで予言されていたとして、その発見内容が今後の科学によって反証されたらどうするつもりなのでしょう。こうした態度は信仰も経験主義も愚弄しているとしか思えません1
 こうした経験主義科学の似非科学的援用は論外としても、「証拠」「証明」という発想自体に、どこか信仰とは相容れないものがあります。
 それは、証拠が要るということ、あるいは「証拠に基いて信じる」ということが、既に信じていないということだからです。
 『社会は絶えず夢を見ている』のエントリで、まとめとの一部として次のように書きました。

たとえば、あなたが見に覚えのない嫌疑をかけられて、親友や恋人に「俺はそんなことはやっていない、信じてくれ」と言ったとすると、この時、親友や恋人があなたに証拠を要求し、証拠があれば信じましょうと言ったとしたら、彼らはあなたを本当には信じていない、ということになる。つまり「十分に理性的な熟考・反省のすえに(その結果)あなたを信じている」ということは、ほんとうはその人を信じていない、ということだ。

 信じるために証拠が欲しい、というのはもっともですし、一般常識的に言って、何の証拠もなく信頼性に乏しいものをホイホイ信じるべきではありません。ですから、一般論としては証拠を探すのは結構なことなのですが、ここで例に挙げられている極限的状況での信頼関係や主への信仰ということについて言えば、証拠というのはかえって「信じる」ことを揺るがすものになります。
 なぜなら、そこで試されているのは事象の確証性ではなく、その人の対象に対する態度だからです。
 証拠に基いて信じる、というのは、厳密に言えば、「証拠Aがなぜ事象Bの証明となるのか」を示す必要性が常に開かれています。名探偵が「犯人はお前だ!これが証拠だ!」と猫の首根っこをつかまえてブラーンとさせていたら、「それがなんで証拠やねん」とツッコまれるでしょう。名探偵は、「証拠の証拠」を持ってこないといけません。つまり、原理的には無限背進の可能性が常に留保されている訳で、実際上はどこかで線を引いて「十分に確からしい」とするのです。これは経験主義科学の構造と似ています。
 しかし、上で問題になっている信頼関係や信仰というものは、そうした原理に基いて「信じ」られるものではありません。そういう側面も実際上にはあり得ますが、それはイマジネールなノイズとでも言うべき領域で、あくまで周縁的・付随文化的なものです。
 あるいは、何かを「証拠」として提示され、それに基いて「一足飛び」に信じるなら、それは信仰に似ています。ブラーンとなっている猫を見て、何か天啓に打たれたかのように信じるとしたら、これは絶対の信頼関係や信仰に似ています。本当のところ、猫は信じることと全然関係ないのですが、猫の中に「信」が結実したのです。そういう現象というのは確かにありますが、これはその時その人にとってのみ起こりうる一回的なものであり、反復再現可能な意味でではありません。裁判所で同じことを言っても通用しません。
 ただ、絶対の信頼関係や信仰においては、重要なのはむしろ「裁判所で通用しない」証明の方です。本当のところ、それは(本人がそう信じていたとしても)証拠とか証明といったものではなく、一足飛びの確信であり、むしろ信念と言うべきものです。
 とにかく、最初に信じるのであり、それは単に「信じる」と言い切る行為でもあります。
 これは証拠や証明から「信じる」というのとは全く違う行為であって、証拠という文脈から信仰における「信」を語るのは非常に危険です。そしてここから「確信」に至るというなら、この確信は物質的に汚染された危ういものになるでしょう。
 ただし、ここで話は終わりになりません。
 上で触れた、ブラーンとなった猫を見て突然確信する、という有り様が、些事として切り捨てられない程作用しているからです。
 つまり、一歩引いて正確に言うなら、証拠的信用と信仰の確信は全く違うものですが、「一歩引」かない領域で両者が混同されたまま一気に確信に至る、という有り様が、信仰自体と分かちがたく結びついている(ことが多い)、ということです。
 これは上の例にある友人や家族などにおける絶対的信頼でも同じことが言えて、わたしたちはしばしば、実際世界上のイマジネールな「つまらないもの(ブラーンとぶら下げられた猫)」を、絶対の「信」を成り立たせるお守りのように握りしめています。これはもちろん、「一歩引いて」みれば全然関係ないのですが、ここで「一歩引」かないこと自体、密着して即決すること自体が、機能しているのです。
 すると一周回って、証拠語りというものにも一遍の理があることになりますが、ここで確信と結びついた「お守り」はあくまで一回的であり、一回的であるからこそ機能します。それを一般化しようとする語らいというのは、極めて狭い共感領域を除いては全く通用しませんし、むしろ不信・不快感を呼ぶものです。だから個人的には、ムスリムが多数派の地域にしばしば見られる「あの」証拠語りに辟易しているのですが、逆に言えば、その限界に自覚的であり共感領域の中で語らわれている限りは、機能するとも言えます。尤も、「自覚的」であったら、そもそも確信とは結びつかない、ということもある訳ですが。
 わたし自身は、ムスリムが多数派の地域で育った訳ではありませんし、単純に文化的に比較しても、エジプト的な共感領域には全く根ざしていません。縁あって普通の日本人よりは多少彼らの文脈を理解できるつもりではありますが、当然ながらベースとなっている文化的コンテクストは全く異なります。そういう人びとが、無理に彼らの「お守り」に共感する必要はないし、すんなり入ってきたらむしろ取り違えていると思って警戒した方が良いです。
 もちろん、「日本人同士」だったら分かち合えるなどということも全然ありません。おそらく自覚している以上に共感領域を共にしているとは思うのですが、わたしたちの社会では軽々にこれを敷衍することに留保をつける嗜みが出来上がっていますし、わたし個人について言えば、普通以上にそんなものに巻き込まれたくない、無防備であったら堪らない、と意識しています。ですから、何か「お守り」を見つけても、その「お守り」は墓場まで一人で持っていけば良いと考えています。
 「お守り」があっても良いですが、それを鞄にぶら下げて歩けるほどナイーヴではないし、その程度には孤独ですし、むしろそれを喜ばしく捉えています。

 ムイッズ・マスウードの番組の第十回では、この「経験主義科学の知見でクルアーンの真正性を証明した気になるな」という問題をそのまま言ってくれています。あるアーヤがビッグバンを示している、という見解に対し、「そんな科学的言説は今後覆るかも分からない。そんなものはクルアーンとは全然関係ない」と、ここでさんざん言ってきたのと同じ事を主張しています。
 古典的ステレオタイプとしての「進化論との矛盾」にしてもそうです。別に矛盾も何もないのですが、それを矛盾と捉えて進化論を否定するのも、信仰を捨てるのも、どちらも狭隘で物質的な見方に過ぎない、ということです。この回ではクルアーンの中での時間表現について、固定的見方をするのを諌めています。
 ムスリムが多数派の地域の伝統的シェイフの中には、シェイフ自らこういう愚をおかしている例が沢山見られますが、この伝統的宗教教育を受けた訳でもない若者の方が余程真っ当で、聞くべきものを備えています。

  1. とはいえ、それで気持ちが落ち着くというなら、個人レベルで考えている分には放っておくしかないし、それで良いと思う []
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