つなぎとしてのアッラー

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 例えば、すごく頑張って勉強して試験に合格したとしましょう。
 合格という結果は、まずはその人の努力の成果です。しかし当然ながら、同じくらい努力しても試験に落ちる人はいます。才能というものがあるなら、それは両親のお陰かもしれないし、そのまたご先祖様のお陰かも知れません。
 優秀なのに、試験当日に体調を崩してしまう人もいます。健康管理をしっかりできたというのもあるでしょうし、健康に産んでくれた親のお陰もあるでしょうし、そのまたご先祖様の力もあるでしょう。
 しかし、こうした諸々の要素をすべて並べていっても、まだ余りがあります。例えば勉強した結果、学力があがり、試験に合格する。こう並べただけでも、勉強してそれが学力になる、この過程がいくらでも分割できそうです。
 わたし個人の経験として、練習や暗記というものが不思議で仕方がないことがありました。今でも不思議です。
 練習します。例えばバスケのシュート。入りません。一回くらいではダメです。
 二回やります。三回やります。何度も何度も練習していると、ある時フッと力が抜けたようにできてしまうことがあります。でもその前の「練習」という営みが、どこをどう作用して結果につながっているのか、ピンと来ないのです。
 あまりうまく表現できている自信がないので、しつこく例えを続けると、暗記も意味が分かりません。
 何かを読むなり書き写すなり声に出すなりして、その一時間後や一週間後に覚えていることもあれば覚えていないこともあります。大抵は一部は覚えていて一部は忘れています。何度も繰り返すと段々定着が良くなりますが、リニアなわけではないし、何を覚えて何を忘れるか予め知ることもできません。とにかく、ある時から何かがわたしの一部のように身体の中に入り込みます。イイクニ作ろう鎌倉幕府とかバスケのシュートとかが、始めは全然出来なかったのに、いつの間にか自分の中に入ってきて、それを取り出すのに何の苦労もなくなっている。この感じが非常に不思議です。

 上にあげたすべてのお話は、それぞれについて例えば脳の記憶のメカニズムなどを分析し、もっと細かく知ることができるでしょう。しかしどんなにステップを細かく分割したところで「AだとなぜBなの?」と問うことはできます。
 子供はそういうしつこい質問が得意で、よく親にシバかれます。良い大人はそんなことを問わないものですが、問おうと思えばいつでも問えるし、密かにずっと気になっている人もいます。子供が大人になるのは、そういうしつこい質問にとりあえず蓋をして、実際的な行動を取れるようにならないとダメですが、蓋をしただけで背後には深い淵がいつでもぽっかり穴を開けています。
 蓋をしたということを自覚していればまだ良いのですが、その覚えもない人が、時々突然淵に気づいて、その深みに気をおかしくすることがあります。この穴には蓋をしておくしかないので、穴そのものには慣れておかないといけません。もちろん、うっかり落ちないようにとりあえず蓋をして大人になる、ということも(世の中的に)意味があります。

 こういう物事をバラバラにしていって、それでも隙間がある、という恐ろしい風景を前にした時に、モノとモノ、コトとコトの間をつないでくれるのが、アッラーです。
 例によって突拍子もないことを言っていますが、我らが主というものは、細かく分割されバラバラに砕け散り、ただ深い黒い穴だけが残る危機を防いでくれている「つなぎ」のようなものです。
 ロジックを辿ってある段階にどうしても「分からない」ことがある時、そこは主の御力を感じておけば良いのです。より正確には、「分からない」というのは常に何らかの不連続を示しています。「分かる」ということはそれが連続となった、ということですが、この連続も近づいてよくよく見てみれば必ず不連続なジャンプがあるので、いつでもどこでも「分からない」という危機はあります。黒い淵です。ですから、「つなぎ」が要ります。
 これは別に、超常的な存在が不思議なビームか何かで世界をくっつけている、という意味ではありません。いや、こうした物語は分裂病的である意味正鵠を射ているのですが、いきなりそこに飛ぶ必要はないし、むしろ深淵に対する恐れの余りこんな物語をつむいでしまうことのないように、「つなぎ」を考えておくのです。

 もっと受け入れやすい言い方をするなら、言語活動の水準で考えてみれば良いです。
 『イスラームの豊かさを考える』に「アラビヤ語会話の「三者構造」に関する理論的考察」という間瀬優太氏の小論があります。この文章そのものは、紙数の制限のためか、非常に面白いテーマであるにも関わらず今ひとつ踏み込みが足りない感があったのですが、取り上げているものは重要です。

 アラビヤ語圏を訪れ、ムスリムの会話に耳を傾けてみると、「アッラー」(・・・)という語が頻繁に用いられることに気付く。買い物のような語句日常的な会話でも、客の「あなたがたの上にこそ、平安とアッラーの慈悲がありますように(アッ=サラーム・アライクム)」という挨拶に、「あなた方の上にこそ、平安とアッラーの慈悲がありますように(ワ・アライクムッ=サラーム・ワ・ラフマトゥッ=ラー)」と答える店主は多い。(・・・)
 「アッラー」という語があまりに頻繁に聞かれるため、アッラーという参与者が会話の場に存在するかのように感じられると言っても過言ではない。

 筆者も指摘されている通り、これらはラカンの大文字の他者を彷彿させるものであり、また日本語文脈における「お天道さま」や「空気」にも通じます。このテクストでは、アッラーとこれらの「第三者」を分かつものについても考察されているのですが、ここでは深入りしません。
 ここでも我らが主は「つなぎ」です。二者の間を取り持ってくっつけている存在です。二者の間にいかに共通の基盤があったとしても、近づいてみれば必ず不連続な訳ですが、その隙間を埋めてくれるのが主です。
 言わば挨拶のようなものです。
 挨拶と礼拝は似ている、と思うことがよくあるのですが、どちらもその行為自体に特別の機能はありません。「礼拝すると痩せる!」とか頭のネジが五十本くらい飛んでる発言をするムスリムに会ったことがありますが、バーベルでもかついで礼拝しているのでもなければ、そんなスポーツクラブの経営を脅かすようなパワーもありません。「いただきます」とか「こんにちは」とかも一緒です。この辺も「つなぎ」的です。
 「つなぎ」というと、いかにも本質的でなさそうですが、そのお陰で世界がバラバラにならずに済んでいるのですから、大変有難いものです。努力したら試験に受かるかもしれませんが、「努力」を「合格」につなげる「つなぎ」は主です。主の御力あってこそ、「努力」が「合格」に結びつくのです。繰り返しますが、これは超常的な力の介入などといったことを言っているのではありません。「努力」と「合格」の間をじっと見ていると気が狂いそうになる、その深い淵のようなものを埋めている、ということです。
 ですから、主があらゆるものごとに介入される、というのは本当です。あらゆるものの間には隙間があり、「つなぎ」が入ります。

 ただし、いかに「つなぎ」が大事だからといって、「つなぎ」だけでは話になりません。肉があるからハンバーグなのであって、卵とパン粉だけコネて焼いても、それは何だか分からない別の食べ物です。そばだって小麦粉しか使ってなかったらそばじゃないでしょう(もしかしてそういうそばも現在は存在するのでしょうか・・恐ろしいです・・)。
 世の中には、「つなぎ」の意義を全然自覚できない人たちもいますが、一方で「つなぎ」だけにとらわれてしまう人もいます。日がな一日小麦粉とかパン粉だけ捏ねてハンバーグを謳っているインチキ食堂のような人たちが、特にムスリムが多数派の地域には時々います。日本のカルト教団などにもいるでしょう。挙句の果てに、肉を使うと偽物だ!などと抜かします。そんなものだったら、肉だけで作ったハンバーグの方が、まだハンバーグに近いです。そんなインチキハンバーグの話は一ミリも聞く必要がありません。その人たちが捏ねているのは、「つなぎ」ではなくただの小麦粉です。
 わたし自身は、もともとできれば肉だけでハンバーグを作りたかった人です。頑張ればそれなりに出来るのかもしれないし、実際、それだけで上手くいくこともあるでしょう。ですがわたしは「隙間」が気になって仕方がなかったし、「つなぎ」を入れてハンバーグが楽に作れるなら、そちらの方が良いと考えています。少なくとも、そっちが普通のハンバーグです。
 何かの事情で、どうしても肉だけでハンバーグを作りたいなら、止めません。それも興味深いです。ですが、別に頑張るほどのことでもないでしょう。ハンバーグは卵とかパン粉とかを使って作るものです。
 普通にやればいいのです。