誰も望んでいない総意、民主主義、正義は正しい

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 イフワーンのムルシーと旧体制残党のシャフィークというのは、少なからぬエジプト人にとって究極の選択かと思いますが、この状況を巡っていつものように小話が大量生産されています。
「シャフィーク大統領は御免だが、ムルシーよりはマシだ。シャフィークは大統領になってもどのみち四年後にはお払い箱だ。イフワーンを選んだら三十年待つことになる」。
 革命の時、ムバーラクが妥協案?として「次期選挙には立候補しない、六ヶ月後には辞任する」と言い出したことがありました。この時、革命派を諭して「まぁあと半年なんだから待ってやれよ」と言っていた人も少なくなかったのですが、これに絡めて「シャフィークであと四年待って、イフワーンであと三十年待つ」というのもあるそうです。

 しかし、こういうゲッソリするような選択を迫られる、というのは、ある意味とても「民主主義的」風景のようにも思います。「自由に選んで」「自己責任」のように見えて、実際上はまるで釈然としないオプションと、さっぱり意味の分からない結果だけが示される、というものです。
 エジプト人の友人は「周りでシャフィーク支持などという人は聞いたこともないのに、一体誰が選んでいるのか」と言っていましたが、わたしの周りにも石原支持という人はほとんど見かけません(笑)。陰謀論好きのアラブは、こういう状況になるとすぐ「外国の介入」とか「選挙の不正」と言い出しますし、しかもそれがあながち妄想でもないところが恐ろしいのですが、今回の選挙について言えば、たとえそうした不正や介入があったとしても、大勢に及ぼす影響は微々たるもので、これが本当に「エジプト人の総意」なのでしょう。総意は大抵、意味の分からないものです。
 「基本的には良い人」が集まったからといって、「良き総意」が生まれる訳ではありません(というか、大抵の人は「基本的には良い人」だ)。何が「良い」かもバラバラなら、良かれと思ってやったことが悪い結果をもたらすことも沢山あります。そんなことは当たり前のことで、だからこそ「民主主義」には時々ゲッソリさせられるのですが、わたしの見る限り、結構多くのエジプト人がこうした考え方には慣れていません。「基本的には良いんだから、(外国や一部の悪人の邪魔さえなければ)集まれば良くなるはず」のようなファンタジーがまだ健在です。それが力でもあるし、勢いにもなるのですが、考えそのものとしては、端的に言って残念ながら正しくないでしょう。

 これを敷衍すると、エジプトが極端なイスラーム主義に走る、という、西洋諸国などで見られる危惧も、妄想とも言い切れないかもしれません。ほとんどのエジプト人は、信心深くはあるものの、サウジやアフガンのような体制は望んでいないし、「世俗的」要素も大いに好みます。人間はそんなに筋道だったものではないし、矛盾するように見えることを平気で併存させているものです。またこれはわたしの考えですが、信仰そのものがそんなに筋道通ったものではありません。「Aを信じるならBはダメ」と自動的に導出できるような性質のものではないし、「導出できる」というファンタジーが暴走すると、大抵信仰もヘッタクレもない残りカスのようなものに成り果てます。
 それはともかく、そういうエジプト人ですから、イフワーンを選ぼうがサラフィーを選ぼうが、極端な政策など実行不可能であるように思えます。多くのエジプト人もそう考えているでしょう。しかし、上のような「民主主義」の性格を考えると、誰一人として望んでいない変な「総意」が独り歩きする、という事態も考えられなくはありません。尤も、これはイスラーム主義だけに言えることではありませんが。

 ついでに言えば、イフワーンを支持する大衆というのは、実際上は別段過激イスラーム主義者でも何でもないし、信仰熱心ですらない場合もままあります。ただ、多くの人々にとって「(自分が良きムスリムであるかどうかはともかくとして)イスラームは良いもの」で、だから「イスラームをすすめるなら良い人」、「良い人なら任せて大丈夫」という、至極単純なロジックがまかり通っているのです。
 正確に言えば、「イスラームが良い」というより「良いとはイスラーム(あるいは信仰に忠実たることそのもの)」ということです。こう書くとやはりいかにも宗教臭く見えるかもしれませんが、ここで考えられているイスラームというものそのものが、非常にナイーヴなレベルでの「何となく良いこと」と等価に扱われていると思えば、例えば現代日本に住む多くの人々とそう変わるものでもありません。要するに「正義は正しい」と言っているだけで、つまり何も言っていないのです。ただ、人はこういう何も言っていない言葉にしばしば動かされるものです。
 これだけ聞くとナイーヴの極みのようで、実際そう思いますが、一周回ってここにはちょっと重要な点があります。常識的に考えて「良いこと」が明快で実際的な一つの内容にまとめられるわけがありません。「善きことたる信仰」が要するに何なのか、というのは、外形的に規定できるものではない、ということです。もっと言ってしまえば、単に「善」とか言っても同じことです。わたし個人は、そのように信仰をとらえています。元が「人を動かすトートロジー」以上のものではないのですから、個別の事象に拘泥して喧々諤々するのは馬鹿げたことです。その最たるものがキリスト教右派の進化論論争のようなものです。そんなものは「正義は正しい」の圧倒的空虚の前には文学的修辞に等しい。
 「正義は正し」く、なおかつ「正義」は存在しますが、それが何なのかは分かりません。ただ、こういう何も言えていない言葉も、何も言えていないからこそ、人が小さな世界で真っ当に生きていく上での支えにはなります。
 しかしもちろん、ここから何か具体的な内容を自動的に導出できるような性質のものではありません。そして少なからぬ人々が、これを分かっていない。「正義は正しい」。異論はありません。しかしそれが集まって「正しい総論」か何かを纏め上げられるかと言えば、そんなことはあり得ません。そんな風に勘違いしてしまうと、「正しさとは、つまり女を家から出さないことだ!」とかいう頭のおかしいデマゴーグに乗っ取られるのがオチです。

 民主主義は最善の決定手段などではないし、ジジェク風に言えば「最低の中では一番マシ」なものでしょう。多分それが、民主主義の良いところでもあり、悪いところでもあります。