羊は迷うのか

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 羊とは縁が深いですが、「迷える子羊」というのは、キリスト教文脈でよく使われるイメージです。
 とりわけ、99匹の羊のお話が好きです。これはマタイとルカの福音書にあるもので、新共同訳だとこうなっています。

18:10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
18:11:<底本に節が欠けている個所の異本による訳文>人の子は、失われたものを救うために来た。
18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
18:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
(マタイ福音書)

15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
(ルカ福音書)

 ちなみに、マタイ伝18章12節のアラビア語訳をみたところ、こうでした。

ماذا تظنون.ان كان لانسان مئة خروف وضل واحد منها افلا يترك التسعة والتسعين على الجبال ويذهب يطلب الضال

 グッとカッコイイですね。元はギリシャ語なので、アラビア語で読む意味は別にないですが・・。

 それはともかく、この迷った羊について、考えることがあります。
 言うまでもなく、ここでの迷った羊は導きを失った人間の象徴であり、とりわけ道から大きく外れてしまった者が言われている訳ですが、外れてしまった羊本人はどう思っているのでしょうか。
 わたしは子供の頃からマイペースで、どこにでも勝手に一人で行ってしまう子で、よく迷子になっていました。
 ある時、大きな駅の中で親からはぐれ、勝手に歩きまわっていたところ、大慌てでやってきた母親にとうとう見つけられて、こっぴどく叱られました。
 そこでわたしはこういったことを言いました。
「迷子というのは、行く場所があって、そこに辿りつけないから迷子なんだ。最初から目的もなく散歩しているなら、それは迷子じゃない」。
 もちろん、親には更に叱られた訳ですが、今でも屁理屈としてこれは通っていると思っています。
 つまり、迷子というのは、「迷っていない」道を知る立場からだけ言えることであって、フラフラ野原を歩いている羊には迷子もヘッタクレもないんじゃないか、ということです。

 実際のところ、羊が群れから逸れると色々危険で、羊当人としても少なくとも他の羊の近くにいたいと思っているのかもしれませんが、「羊のいるべき場所」というのは、羊一匹一匹の頭にはないかと思います。また一匹ではなく99匹くらいまとめて脱走してしまえば、羊的にはもう全然問題ないのではないでしょうか。
 ですから、ここで重要なのは、迷ったか迷っていないかというのは、羊の立場から言っているのではない、ということです。
 あくまで神様の立場です。
 福音書の記述でも、マタイ伝の方は「迷い出た」ですが、ルカ伝では「見失った」です。迷ったとは言っていません。羊飼いの方が見失ったのです。羊としてはイヤッホーとノリノリだったかもしれません。
 キリスト教的にはイーサー(イエス)も「神の子」で、わたしたちとは見方が違いますが、この喩えが唯一なる我らが主の視点からのものであることは変わらないでしょう。根本は変わらない筈です。
 言いたいのは、導きというのは主のご都合のものであって、人間にとってどう映るかは別問題だということです。

 時々「宗教が何の役に立つ」とか「現代社会ではこれこれの方が良いんじゃないか」という声があります。
 こう考えるのはよく理解できるのですが、それはあくまで人間の都合です。教えは第一に主のご都合のものなので、人間のためのものではありません。人間中心ではないのです。
 もちろん、主は人間のことを、人間には推し量れない尺度から「最良」の方向に導いて下さっている、と期待される訳ですが、その期待も人間の期待ですから、本当のところは分かりません。こんな風に言うと、信心深い方から怒られそうですが、わたしは常にそのように考えています。主の御心を人間が理解しようにも分かる筈がないですし、現象としては不条理に映るのが当然です。分からないから「信じる」と言うのです。分かっているなら、そんな他人任せなことをしないで、自分で頑張れば良いのですし、実際、自分で分かることは自分でやるべきでしょう(多分その方が主のお考えにも沿うものかと思いますが、もちろん本当に沿っているかは、これまた分かりません)。
 信仰の根本にあるのは、「分からないことがある」ということ、そして「わたしの知らないことを誰かが知っている」ということです。そういう諦念と謙虚さというものが、非常に重要だと考えています。
 また信心深い人に怒られそうなことを言えば、「誰かが知っている」というのも、確証のあるものではありません。もしかすると、誰も知らないかもしれない。主は全知ですから、ご存知の筈なのですが、ご存知かどうかをわたしたちは「知らない」。だから「信じる」。
 わたしは主が全知だと「信じ」ていますが、それ以上のことは知りません。
 「もしかしてご存知じゃないかもしれない」と言われて、顔を真っ赤にして怒るのは信仰ではないでしょう。その人の気持ちは真っ直ぐで素直な人だとは思いますが、わたしたちに出来るのはせいぜい「信じる」ところまでです。「知っているということを知っている」と言えば、それは逸脱で、むしろ信仰に反することだとわたしは考えます。わたしは知りません。

 わたしには分からないことが沢山あるので、分かろうとして分かることについては分かろうとしますが、分かりようもないことについては単に「信じ」ます。その時、わたし自身としては「散歩しているだけ」で、別に迷ってもいないのかもしれませんが、わたしを探している人がいるのでしょう。いないかもしれませんが、いると「信じ」ています。信じているだけなので、本当かどうかは知りません。
 分からないことというのは、単に知識として知らない、ということではありません。知識として知らないことは、知ることもできるので、知りたいなら知ったら良いでしょう。頑張れば多分できます。
 分からないのは、「それがそれとしてある」ということです。
 世界の内部に生起する出来事の関係については、頑張れば相当に知ることができます。しかしそれが「なぜ」存在し、運動するのかということは、知りようがないことです。
 わたしの心理、わたしの性格といったものについて、脳や遺伝子から語ることは可能でしょうし、大いにやったら良いかと思いますが、しかしわたしが「この」わたしである、という不思議については、これは物理現象ではなく、むしろ言語の内部のことなので、いくら物質を切り開いても分かりません。ある種の立場からは、そんな問いがそもそも馬鹿げていて、問いとして成り立っていない、とも言えるでしょう。
 でも不思議で、わたしは知りたいし、知りません。

 野生動物を扱ったテレビドキュメンタリーで、サイを助けるためにヘリコプターで吊るして運ぶ、という場面を見たことがあります。
 ヘリからブラーンとぶら下げられたサイの心境としては、言語を絶する恐怖だったことでしょう。わたしなら絶対イヤです。
 人生には、サイがヘリからぶら下げられるくらい不条理で意味不明な恐れや苦しみ、不安というのが時としてあります。
 そういう時は、「きっと動物レスキューの人がわたしを助けるためにやっているんだ、きっと何かの意味があって、今は分からなくても、死んだら質問できるんだ」と考えるようにしています。
 考えているだけなので、全然違うかもしれません。
 死んだら、動物レスキューの人に、「もうちょっと他にやり方がなかったのか」とクレームを言いたいです。