てんかん患者と運転

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 祇園で起きた事故(事件かもしれない)のせいで、またてんかんに対して関心が集まっています。
 良い意味で関心が向き、正しい認識が広まるなら結構なのですが、元々あるてんかん患者への誤解や差別意識が更に煽られている感もあります。
 この辺りの誤解については、

てんかん報道(特に、報道関係者のかたへ)|てんかん(癲癇)と生きる
てんかんと京都の事故について 東北大学病院・中里信和教授 – Togetter

 などをご参照頂ければ良いでしょう。

 さて、こうしたてんかんについての基本的認識が整った上で、なお運転などに対する制限をかけるべきか、かけるとしたらどのように行うか、という問題があります。
 「てんかん患者」ではなく「発作を起こす可能性の高い患者」については、申告すべき制度になっているのに、差別や職業上の不利益を理由に申告しない例がままあるようです。もちろんこれは問題ですが、現状のてんかん認識が変わらないまま、単に当人の良心とか遵法意識に訴えるだけでは、方法として合理的ではないでしょう。
 すると例えば、「発作を起こす可能性が高い」患者について、医師に警察等への申告を義務付ける、といった発想が出てきます。これはシステマティックに状況を改善しようとしている点では尤もなのですが、少し考えれば分かる通り、かなり恐ろしいやり方です。国家が市民の健康状態を管理し、「病人」についてはその権利等を制限していく、という方法は、一定の範囲で致し方ないにしても、可能な限り避けるべきです。
 もちろん、運転中に大発作がおきれば、人を傷つけ、場合によっては死に至らしめる可能性もあるわけですから、「免許を取り上げろ」という気持ちもよく分かります。わたしだって、道を歩いていて意識を失った人間の運転する車に轢かれたくはありません。しかしこうした方法を検討するなら、この方法によって促進される「国家による身体管理」という、優生学とも連なる危険についても共に勘案し、両方のリスクを秤にかけないといけません1
 加えて、「突然意識を失う」病気というのは、別にてんかんだけではありません。てんかんの大発作が起きることは、正しい治療を受けていれば滅多にありませんが、この程度の確率なら他の多くの病気(自覚のないものも含め)であり得るでしょう。心臓発作リスクの高い人についても、運転を禁じるのでしょうか。それなら「充分な睡眠時間を確保できない労働環境」にいる人からも、是非免許を取り上げて頂きたいです2。「車で来ているのに酒をすすめられると断れない性格」の人も免許停止してもらいたいです。
 これら全部をひっくるめて、「危ない人」からは一律免許を取り上げろ、というなら、それはそれで分からない主張ではありません。上述の「身体管理」による危険性を考えると、到底軽々に一票は投じられませんが、それでもてんかんに的を絞って見当違いな制限を加えるよりは真っ当でしょう。個人的には、てんかんよりは先に「車で来ているのに酒をすすめられると断れない性格」の人たちにGPSでも付けて管理して頂きたいですが。

 実際問題として、てんかん問題だけでなく、高齢者による事故なども増えているようですし、何らかの形で自動車の運転に制限を設けること自体は必要かと思います。ただ、その場合には、「てんかん」という括りでものを考えないこと、身体的条件を元に権利が制限されることの危険を充分に勘案し、後者については暴走に至らないよう慎重に監視する必要があるはずです。
 ちなみに、もっとスマートな方法として、例えば意識を失ったら自動的にブレーキがかかるような技術を開発する、といったものがあります。決して非現実的な話ではありませんが、そうしたシステムの義務化するとしたら、法整備だけでなくコスト的な問題も大きな壁になるでしょう。それをおいても、これはこれで是非進めて欲しい方策ではありますが。

 てんかんは決して珍しい病気ではなく、わたし個人も何度か大発作の現場に居合わせたことがありますし3、また知人でてんかんを理由に就職を諦めてしまった人がいます。これは本人の腰が引け過ぎなので、「世間のせい」だけにする気はありませんが、それくらいのプレッシャーを知らない間にかけてしまっている、ということは自覚して良いのではないでしょうか。

  1. わたしはサヨクではないので、後者のリスクが絶対悪だとは思わない。またこれはファシズム的な危険であるが、ファシズムが絶対悪だとも考えない。むしろ様々な点でファシズムそのものについては肯定的に見ている。単なるリスクの大小の問題だ []
  2. その労働環境がないと「生活できない」というなら、てんかん差別を恐れて職場に告白できずに運転しているてんかん患者をどうして責められるのか []
  3. これは差別意識を助長する発言なので、少し気が引けるのだけれど、ドストエフスキーではないが、非常に美しい光景で、脳裏にこびりついて離れることがない。こうした「神聖化」は差別と裏腹で、まったくもって危険なのだけれど、単純に審美的には胸を打たれる風景だ []
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