モテるために、かつて言語は難しかった

 『さえずり言語起源論』「音楽と信仰」に関連して一つメモしておきたいのですが、統語構造が意味と独立に発展した、あるいは文法が意味に先立つ、と考えると、古い言語独特の難渋さというのに合点がいきます。
 言語学の専門家でもなければそれほど多くの言語を知っている訳でもないので、古い言語一般にそうした傾向があると言えるのかは確証がないのですが、少なくともラテン語とアラビア語(フスハー)についていえば、現代人から見ると全く非能率的としか言い用のないコテコテの屈折語的特徴があります。ラテン語はその後フランス語やイタリア語、スペイン語となり、これらはどれも文法それ自体としてはラテン語からグッと簡略化されています。アラビア語についても、現代口語のアーミーヤはフスハーより文法が簡略化されています。
 簡略化されていった経緯については、過剰な係り受け的法則や屈折性は、意味内容の伝達だけに目的を限るなら必要のないものですし、日々の生活の中で使われている内に省かれていく、というのは、至極自然な流れでしょう。
 ですが、それならなぜ最初にあれほど煩雑な文法構造があったのでしょうか。仮に言語がすべからく簡略化していくのだとしたら、原始言語はものすごい複雑な文法を持っていた、ということになりそうです。簡単なものから始まって段々複雑化する、というのなら分かりますが、最初に複雑なものが突然出てきて、それが段々簡単になる、というのは、いささか奇妙に思えます。
 しかし、もし「統語構造の複雑さ」自体が追求されていた時期が言語にあったとするなら、少なくとも歴史上のある時点で、異様に複雑怪奇な言語があったとしてもおかしくありません。つまり、最初は流石に簡単な構造だったものが、ひたすら「複雑さ」を求めて発達し、その後「意味内容の伝達」という別の目的のために簡略化されていった、ということです。
 なぜ複雑さ自体が追求されたかといえば、その方がモテるからです。
 言語が「さえずり」的起源を持ち(起源の一つとして持ち)、「さえずり」の基本的な目的が「性的ディスプレイ」、あるいはその延長としての情愛表現だとするなら、それは求愛ダンスであり、ダンサーが超絶テクニックを競うように(あるいは家禽化されたジュウシマツが歌の複雑さをエスカレートさせたように)、統語構造が複雑化していってもおかしくありません。そしてダンスが、ダンス全体として表現したいことがあったとしても、個々の動き自体には、通常個別の明示的意味がないように、この言語において重要なのは、全体としての複雑さ・超絶技巧であり、単語の意味ではありません。
 こうした要素は、現代でも詩文などの世界で残っています。韻を踏んだり五七五に合わせることは、意味の伝達にとっては何の役にも立ちませんが、その方が「カッコイイ」からそうするのです。
 日本語でも古文は現代語より文法が複雑で、係り受け的な「お約束」が多く見られますが、こうした要素は意味伝達の合理性だけ考えるなら、必ずしも必要ありません。ですが、その独特の「カッコ良さ」については、多くの日本語話者の理解するところでしょう。
 現代でも中世ヨーロッパのようなダイグロシア状況にあるアラビア語圏では、1400年前の言語が他の地域ではあり得ないほど良く保存されている訳ですが1、このアラビア語世界では、詩人の朗読に若者が詰めかけるほど、現代でも詩文の人気があります。言語の「音楽的」要素が、少なくとも欧米や東アジアよりずっと評価されているのです。弁舌の立つ人が尊敬され、こうした人の語る言葉は、アラビア語として聞いている分には実に技巧に富みカッコイイのですが、例えば翻訳して意味内容をまとめようとすると、実は大して中身のあることを言っていない、ということがよくあります。新聞の文章すら、やたら大げさでムダにカッコイイです。逆に言えば、中身はスカスカだったりします。
 あるエジプト映画の中に、大して教養もないチャラチャラした今時のエジプト青年が、好きな女の子に振り向いてもらうために、バルコニー越しに慣れないフスハーで詩をうたいあげる、という場面がありました。これはもちろん、映画的に戯画化した風景であり、流石に今時のエジプト青年がバルコニー越しにフスハーで詩を読んだりはしないと思うのですが、少なくとも映画的誇張としてはあり得る程度に、難しい言語でカッコ良く語ることは「モテる」要素なのです。現代日本では、例え映画の一場面としてでも、時代劇以外ではこんな演出は成り立たないでしょう。そして、この詩の朗読で「伝えられているメッセージ」は、要するに「好きだ」とか「結婚してくれ」とかいうだけです。
 このアラビア語的カッコ良さというものが、かつて言語をドライブし発展させた推進力だったのではないかと考えられます。もちろん、これは言語の起源および目的の一つであり、そのすべてという訳ではありません。しかし、「メッセージの伝達」という、現代的視点に囚われがちな現代日本人としては、この要素についてとりわけ注意して目を向ける必要があります。

 「音楽と信仰」で書いたのは、この古い言語の性質こそが信仰の言語なのだ、ということですが、これが「信念体系・戒律体系としての信仰」といった(漫画的)誤解への批判となるのは、話し言葉的思考というものと関係します。
 「読み書き能力と状況依存的思考 A・R・ルリアの調査から」」「『声の文化と文字の文化』ウォルター・J. オング」「カテゴリー的思考への固執、識字能力と思想変化の速度」で書いたことですが、読み書き能力のない人々は、一般に文脈志向的な考え方をし、カテゴリー的・リスト的な思考を苦手とします。「ハンマー」「のこぎり」「丸太」「手斧」から「仲間はずれを一つ挙げよ」といった考え方が苦手なのです。一方で、「「兵士」と言わず「勇敢な兵士」、「王女」と言わず「美しい王女」というように、決まり文句や対比的な修飾句を多用する」という特徴があります。これらは「意味内容の伝達」に限って言うなら冗長ですが、文字を使わずに記憶しなければならない場合には、こうした修飾や節付けがあった方が想起し易い、という特徴があります。またもちろん、詩文的なカッコ良さもあります。
 信仰のディスクールを現代風に書き起こして、その内容を並び立ててみる、ということは可能です。現代ならずとも、大昔からそうした学問的研究というのは山ほど為されてきました。それらが信仰と無関係とは言わないし、また一定の重要性も持ってはいるのですが、根本にある人を巻き込んでいる力ではありません。一番大切なのは、「天上の音楽」としての信仰の言葉であり、それがなければ六信五行などと紙に書いたところで、ただのお説教やお題目と変わりありません。そんな道徳の教科書のようなものは信仰ではありません2
 信仰の言語は、一般に古い言語がよく保存されている領域ですが、ここで重要なのは、かつての言語で重要であったようなモテモテダンスとしての言語です。そこを忘れて字面だけ書き言葉で黙読などしても、ボクシングを本で勉強するくらい無意味です。
 より正確に言えば、「信仰の言語」というより「信仰が言語」です。信仰とは、天上から響き渡る、超絶技巧で韻を踏んだラップのようなものです3

 上で触れたことですが、「カッコイイ」「モテモテ」ということと並んで、記憶ということも、文法の複雑さに関係している筈です。屈折語的特徴や、係り受けといった法則は、意味内容の伝達にとっては冗長ですが、声に出して何度も唱えて暗記する場合には、独特のリズムを作り記憶や想起を容易にします。「こう来てこう来てドーン!」的なリズムがあるので、口をついて出やすいのです。
 しかもこの記憶というのは、現代人が本を暗記するというのとは違います。読み書き能力がない人々が、文字の力を借りずに、音だけで伝えていくものなのです。リズム的・時間的要素の重要性は、受験暗記の比ではありません4
 アラブ世界では、今でも暗記能力というものが高く評価される傾向がありますが(もちろん暗記偏重の弊害もある)、これはアラビア語の音楽性、詩的要素といったことと無関係ではないでしょう。更に言えば、社会的評価ということは「モテ」に連なるものであり、要するに「ノリ良く読んでよく覚えるとモテる」とも言えます。モテと記憶もつながっています。アラビア語の屈折的特徴、フスハーの保存、信仰の社会的重要度、詩文の尊重、弁舌ばかり達者で実際的能力に乏しい権力者、アラブ人の交渉上手、といったことは、すべて一つに連なっている筈です。
 そして信仰、記憶、モテ、文法、音楽も、同じ流れの中にあります。

 逆に言うと、書き言葉の発明と普及、ということは、文法の簡略化や信仰の社会的位置の変化と関連している筈です。「書き言葉的思考」と読み書き能力はイコールではありませんし、重要なのは個々人の読み書き能力ではなく、社会全体での識字率と思想傾向ですが、書き言葉の普及と口語文法の簡略化との間には相関性が見いだせるかと思われます。
 もちろん、ここで詩文的要素がすべて捨て去られてしまう訳でではなく、現代語でも残っているわけですが、「詩」「音楽」と言った形で言語本体から分離されて捉えられるようになります。「信仰」もまたこれと同じく、言語の本流とは独立した一分野として認識されるようになります。この大勢自体には抗えるものではありませんが、分離後の姿だけを見ていては、そのものの本質を見誤ることになります。

 最初に書いたとおり、わたしは言語の専門家ではありませんので、以上は詩的=私的試論に過ぎません。古い言語もラテン語をかじってアラビア語を学んだ程度ですから(どちらも屈折語)、他の多くの言語、とりわけもっと古い言語における文法の複雑さについては分かりません。古代言語を知悉されている方の意見を是非伺ってみたいものです。

  1. もちろん現代標準アラビア語(MSA)とクルアーンの時代のアラビア語が全く同じフスハーという訳ではなく、基本的な文法は変わらないものの、語彙語法については大きく異なる。 []
  2. そして信仰者自身にも、道徳の教科書的なものに信仰を貶めようとする「ノリの悪い」「モテなさそう」なヤツらが沢山います。「ノリの悪い」「モテない」人は信仰を語らない方が良いと思います。ダンスが踊れないから日がな一日女の服装のことなどに唾を飛ばしているのです。 []
  3. 以前に般若心経をヒップホップ風に現代語化したものを見かけましたが、あれは信仰の真髄をかなり射当てています。 []
  4. 受験暗記と言えば、今でも暗記では語呂合わせなどがよく使われています。「イイクニ作ろう鎌倉幕府」という文には意味がない、あるいはその意味はどうでもいい訳ですが、この方が覚えやすいからそうするのです。ノリが良いものは覚えやすいです。 []
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