同じ船に乗って眠る

 眠りに落ちる前に不安になる。
 隣で眠っている人と、違う場所に行ってしまうのではないかと思うのだ。
 その場所が良い場所なのか悪い場所なのかは、よく分からない。しかし、もし誰か眠っている人がいるなら、その人のいる場所に船にのって一緒に流れていきたい。
 同じ船に乗るにはどうしたらいいのだろう。
 お話をすると良いと思う。
 幼い子供に語るように、お話をして眠る。すると、同じ船に乗れるのではないかと思う。
 それも簡単ではなくて、とても心を掴むお話でないといけない。『はてしない物語』の本の中のように、世界の一部の小さな穴に見えた場所から、その世界よりも広い世界に抜けられるようなものでなくてはならない。
 そして実のところ、穴のこちらも向こうも、お話という意味では何も変わらない。ただこちらのお話は狭く明瞭で、向こうのお話は広く薄暗く不明瞭だ。狭くて明るいがために、それがお話だということになかなか気付けないのだ。本の向こう側に抜けるのは簡単ではない。

 ところで、イスラームでは、寝る前にآية الكرسي台座の節を読むと良い、ということが言われる。
 もちろん、そんな啓示は下されていないし、多分ハディース的な根拠も怪しいものだろう。ずっと後世になってから作られた、民間信仰と変わらない程度の話だと思う。
 ただ、こういう人の気持ちはよく分かるし、わたし自身も、時々布団の中で呟いたりしている。
 آية الكرسيは、ほとんどのムスリムが間違いなく知っているとても有名な節なので、少し長いが以下に引用してみる。

اللّهُ لاَ إِلَـهَ إِلاَّ هُوَ الْحَيُّ الْقَيُّومُ لاَ تَأْخُذُهُ سِنَةٌ وَلاَ نَوْمٌ لَّهُ مَا فِي السَّمَاوَاتِ وَمَا فِي الأَرْضِ مَن ذَا الَّذِي يَشْفَعُ عِنْدَهُ إِلاَّ بِإِذْنِهِ يَعْلَمُ مَا بَيْنَ أَيْدِيهِمْ وَمَا خَلْفَهُمْ وَلاَ يُحِيطُونَ بِشَيْءٍ مِّنْ عِلْمِهِ إِلاَّ بِمَا شَاء وَسِعَ كُرْسِيُّهُ السَّمَاوَاتِ وَالأَرْضَ وَلاَ يَؤُودُهُ حِفْظُهُمَا وَهُوَ الْعَلِيُّ الْعَظِيمُ
アッラー、かれの外に神はなく、永生に自存される御方。仮眠も熟睡も、かれをとらえることは出来ない。天にあり地にある凡てのものは、かれの有である。かれの許しなくして、誰がかれの御許で執り成すことが出来ようか。かれは(人びとの)、以前のことも以後のことをも知っておられる。かれの御意に適ったことの外、かれらはかれの御知識に就いて、何も会得するところはないのである。かれの玉座は、凡ての天と地を覆って広がり、この2つを守って、疲れも覚えられない。かれは至高にして至大であられる。(2-255)

 この翻訳はいくつか意味が限定され過ぎているように感じられるところがあるが、わたしよりはよく勉強している人が訳したのだから、多分こっちが正しいのだろう1
 主は眠ることなく、天と地を支え疲れることがない。クルアーンには天と地がペシャンと潰れてくっついてしまう、という描写があるが、ペシャンとならないように支えてくださっているということだろう。うたた寝したら潰れてしまうけれど、眠ることがないのでペチャンコにはならない。
 これはつまり、わたしが眠っていても、少なくとも誰か一人は眠っていない、ということだ。
 わたしが眠ってしまっても、世界を見ている人がいる。瞬きしても世界は終わらない。
 森の奥で倒れる木。その木は存在し、倒れる時に本当に音がするのだろうか。それを想うと、胸が締め付けられるようだ。なぜなら、この木はわたしだからだ。
 ペチャンコにならなかった世界とは、わたしが描かれるものとして描き込まれた世界だ。わたしは、わたしにとっての他の存在を知っているし、他の存在のすべてすら知ることができるかもしれないが、他の存在とわたしを合わせた〈全体〉にとってのわたしは知らない。
 だから、わたしの代わりに誰かが知っていてくれないといけない。
 きっと、わたしがトイレに行きたくなったら、わたしの代わりにトイレにも行ってくれるのだ。
 このお話の旋律が、もっと空から響くようになれば、きっと同じ船に乗って眠ることができるに違いない。

  1. 当たり前だが、アラビア語でかつ音がなければ意味がない []
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