「ドラゴン・タトゥーの女」デヴィッド・フィンチャー

 「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」「ソーシャル・ネットワーク」のデヴィッド・フィンチャー最新作、「ドラゴン・タトゥーの女」。
 あらすじとしては、

 経済誌「ミレニアム」の発行責任者で経済ジャーナリストのミカエルは、資産家のヘンリック・バンゲルから40年前に起こった少女ハリエットの失踪事件の真相追究を依頼される。ミカエルは、背中にドラゴンのタトゥをした天才ハッカーのリスベットとともに捜査を進めていくが、その中でバンゲル家に隠された闇に迫っていく。

 などと紹介されていて、もちろん間違っていないのですが、そこがポイントの映画ではありません。
 確かに物語の軸は「ハリエット殺し」の犯人を追うサスペンスなのですが、そのサスペンスがやりたいだけなら、極端な話、リスベットというキャラそのものが要りません。凄腕ジャーナリストが隔離された富豪一族の島の殺人事件を追う、という話でまとまってしまいます。このサスペンス部分だけでもそれなりに面白いですが、オチといい犯人といい、別段抜きん出たところはありません。
 この映画が素晴らしいのは、サスペンスに見えながら、サスペンスとしては非常にバランスが悪く、そのバランスの崩れたところ、バランスを崩している要素に、本当の映画の軸があるところです。この辺、「ソーシャル・ネットワーク」にも通じるものがあります。「ソーシャル・ネットワーク」も、ある天才が巨大ソーシャルネットワークを作り上げのし上がっていく話ではありますが、面白いのはその主旋律に回収されないザッカーバーグの心の歪みや闇の部分です。ラストシーンも「ソーシャル・ネットワーク」と非常に被ります。
 ネタバレですが、サスペンスということなら、リスベットがその事件そのものの真相に全然絡んでこないのは、伝統的な物語構成としては完全に失敗です。リスベットを巡る細かいエピソードも全然要りません。エピローグ部分なんてまったく蛇足です。しかしまさに、その蛇足の部分に奇妙な影のあるところが面白く、なおかつその「蛇足」は、主旋律となる「蛇」の身体がなければ描けないのです。蛇の足だけ描いてもそれはただの足です。
 なぜ蛇を描いて、さらに足を付け足すのかと言えば、一つには単純に興行上の問題があるでしょうが、わたしたちの人生の闇自体が、主旋律があった上で、そこからはみ出すものとしてしか析出されないからでしょう。頭でっかちなアーティスト気質の若者は、そのコアの部分だけを取り出して描きたくなるのですが、そこだけ取ってしまうとただの「足」で、何が不気味なのかも分からなくなるのです(昔の自分に説教したい)。
 サスペンス部分に比べると、リスベットを巡る描写は一々リアリティが弱く、今ひとつ説得力にかけるものがあります。でもおそらくは、そういう説得力にかける「うまくいかなさ」自体を対象にしたかったのでしょう。この「うまくいかない」感じは、「ソーシャルネットワーク」のラストでクリックし続けるザッカーバーグの絵そのものです。
 蛇だけ描けば見事なサスペンスで、それはそれで立派な映画ですが、心に引っかかり続けることがありません。一方で足だけ描いては、訳のわからない実験映画で終わりです。蛇に足を付け足して尚商業作品として成功させる、というのは、本当に限られた人々にしか許されない偉業ですが、デヴィッド・フィンチャーというのは、そういう限られた人々の一人なのでしょう。
 すごい映画です。

 まったく全然関係ないですが、バイクシーンでスタントを使っていないのだとしたらリスベットの運転がとても上手いと思ったのですが、流石にスタントでしょうね。いかにも凍っていそうな橋の手前でバンクする場面は、元バイク乗りとしてハラハラしました。

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