何もないならアッラーを信じればええやん

 主に原発を巡る言説の中で「何を信じて良いものなのか分からない」といった表現を目にするし、一般的にも「混沌の時代」を表現するものとして「信じられるものが何もない」みたいなことがよく言われます。
 何もないならアッラーを信じればええやん、と思うのですが(笑)。
 いや、実際のところ、唯一者を信じればそれで良いと思っています。もちろん、唯一者を信じたところで、「群馬のマイタケは危ない」とかそんなことは教えてくれません。もしかすると、どこかの学者がファトワーを出して「三陸沖の魚はハラーム」とか言い始めるかもしれませんが、そんなものはヒゲのオッサンがテキトーに言っているだけですから、我らが主の御言葉でも何でもありません。自分で考えて信用できると思うなら信用すればいいし、そうでなければオッサンの寝言だと思っておけばいいでしょう。
 これはかなりアホな想定ですが、原発(でも何でも)を巡って色んな学者が色んなことを言っていて何が本当か分からない状況で唯一者を信じるというのは、人の言うことを何も信じないのと一緒です。要するに何だかよく分からないのだから、自分で考えて自分の責任において「こんなもんやろ」というのを選んでおけ、という、至って常識的というか、身も蓋もないものです。
 そして世界は、基本的に身も蓋もないもので、別に「混沌」としているのは「物語なき現代」だとか「超大国なき世紀」ばかりではありません。いつだって世界は混沌としているし、どこからがルールでどこからが反則でどこからが演出でどこからがガチなのか分からないプロレス的なものでしょう。
 もちろん、非常に多くの学者や識者が、一致した意見を出す、という状況は大いにあり得ます。そういう場合は、この意見を信用してもまぁ大丈夫な確率が高いでしょうが、その時は、信じる信じない以前に多分あなたやわたし自身も同じような考えなのではないかと思います。もし違ったらどうする、というのは、一つ大問題としてありますが、それも主に尋ね自分で決めるしかないでしょう。
 唯一者を信じるというのは、基本的にはそういうことではないかと、わたしは考えています。
 じゃあ何も信じないでもいいじゃないか、というと、確かに良いと思います。しかし、大抵の場合、わたしたちは、何も信じていないつもりで何かを信じてしまっています。自分が何を信じているのか知らない、その状況は、大前研一を信じているよりもっと危ない状態でしょう。ですから、信じるものを唯一者にピン止めしておくというのは、か弱い人間に与えられた恵みとも言えます。
 何もないならアッラーを信じればええやん。だめですかね。

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